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【2】生録の妙味

 1984年に細野晴臣プロデュースのアルバム『VIDEO GAME MUSIC』が発売された後も、同年に細野晴臣のアレンジによる12インチシングル『SUPER XEVIOUS』、翌年には国本佳宏や上野耕路が参加した『THE RETURN OF VIDEO GAME MUSIC』が、相次いでリリースされた。
 しかし、この頃音源はPSGからFM音源に進化し、やがてPCMによるサンプリング音までを出せるほど表現力が高まり、ゲームミュージックも「BGM」から「音楽」としての自己主張を始めた時期。『VIDEO GAME MUSIC』による衝撃は、やがて世に出ない他のゲームミュージックに対する渇望へと変わっていった。

もっともっとゲームミュージックを聴きたい。
雑音だらけのゲームセンターでではなく、じっくりと家で聴いてみたい。

 そんなゲームミュージック・マニアの渇望は、しかし当面は満たされることがなかった。
 ならば、無いものは自分でなんとかするしかない。それが“生録”、すなわち自分の手で筐体から流れるゲームミュージックを録音する行為である。

 この当時、ゲームの筐体はまだまだインベーダー時代から続くテーブル筐体が主流を占めており、その一方でセガの体感ゲームをはじめとする大型筐体ゲームも、徐々に勢力を拡大していた。
 テーブル筐体においては、大体において2プレイヤー側の右下にスピーカーが付いている事が多かった。そこで、ゲームミュージックの生録に理解を持つ同士とチームを組み、一人が2プレイヤー側でマイクをスピーカーに押さえ(あわせて手でマイクを覆うことで、外部からの雑音を防ぐ役目も負う)、もう一人ができるだけ効果音を入れずに長く曲を収録できるよう、アクションゲームなどではなるべく攻撃もせず、やられもせずに粘りつつプレイする。このコンビネーションが生録の基本である。
 大型筐体ゲームの場合だと、作業はもっと楽になる。大型筐体ゲームはゲームに合わせて筐体を作ることがほとんどであるため、大抵スピーカーはプレイヤーにとって聴きやすい位置に据え付けられている。それはつまり、録音する側にとってもやりやすい位置であるのだ。

 しかし、理解者がいてチームを組めるうちはまだいい。多くの場合、そうしたマニアックな行為は周囲の理解を得られず、同士を見つけられずに、やむなく一人での孤独な作業となるのだ。
 そうした場合は、例えばセロテープでマイクをスピーカー前に貼り付けたり(もちろん手で覆うことができないため、かなり外部の雑音を拾ってしまう)、大型筐体ならば服の襟部分にマイクを固定し、そのままシートの後頭部部分にあるスピーカーから音を拾う、などという方法もあった。また、セガ製の新しめのテーブル型筐体ではプレイヤー側にスピーカーがあったので、ヒザでマイクを押さえつけつつプレイする力技も存在した。
 やがて、各メーカーもゲームミュージックをアピールするため、筐体にヘッドホン端子を備えるケースが出てきた。セガの体感ゲーム、タイトーの『ダライアス』筐体、セガ・タイトー・ナムコなどの汎用筐体などである。ただし、そうした筐体でもプレイヤーがボリュームが調節できない場合が多く、録音してみたもののいざ再生してみたら音が割れまくっていた…などということも日常茶飯事であった。

 こうした“生録”によって得られた貴重なゲームミュージックの音源は、しかし広まったことはほとんど無いと言っていいだろう。当たり前のことではあるのだが、“生録”はサウンドトラックとしてのクオリティは極めて低く、あくまでアルバムでクリアな音が聞けないことに対する代替行為でしかない。
 乱暴な言い方をしてしまえば、“生録”とは自己満足のための行為であるのだ。少なくともテストモードなどを用いず、一般プレイヤーが自力で強引に行なう録音は、純粋に自分や仲間同士で楽しむための行為であり、仲間内以外の他人が聴くところまでは想定されていない。
 店員や他の客になるべくなら見られないよう周囲に気を配り、こっそり機材をセッティングし、どう見てもクリアやハイスコアからはほど遠い内容のプレイを続け、遊び終わるとヘッドホンで録音内容を確認し一喜一憂する――そうした全ての行為を含めたものが、「生録の妙味」と言えるのかも知れない。

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【1】ゲームミュージックはナムコから始まった

 世界初のゲームミュージックは、『ラリーX』(ナムコ・1980年)らしい。

 それ以前のゲームからは、効果音の類は鳴らされていたし、またファンファーレ程度の短いフレーズなら、同社の『ギャラクシアン』(1979年)をはじめとして、同時代のゲームにはすでに使われていた。
 しかし、「BGM」としての機能と意図を持ち、ゲーム中に始終流される音楽としては、『ラリーX』が“ゲームミュージック”の始祖と言えるのだ。

 今でこそ、ゲームに音楽があるのは当たり前の話であり、その表現の幅も限りなく自由に近い。
 だが、かつては素朴な音色でゲームを盛り上げるような音楽を作るべく、今では考えられないような試行錯誤があったと聞き及ぶ。
 そして昔の一部マニアは、ゲームセンターの筐体に埋め込まれたスピーカーから流れる素朴な音色に、家庭用ゲーム機でテレビのモノラルスピーカーから流れるフレーズに、心をとらえられることとなる。
 それ以来、「ゲームミュージック」は密かに、しかし根強く支持されていくのだ。


 そもそも、昔はゲームメーカーに「作曲」専門のセクションがあるわけでもなく、プログラマーが作曲を(曲データのプログラミングも含めて)担当することが多かったらしい。
 その中で、ナムコはいち早く作曲のセクションを設け、ゲームミュージックの確立に注力してきた。
 それが前述の『ラリーX』をはじめ、『マッピー』『リブルラブル』『メトロクロス』といった初期の名曲群を手がけた大野木宣幸であったり、音大卒業後ナムコに入社し、『ギャプラス』を皮切りに『ドルアーガの塔』『トイポップ』『ローリングサンダー』『風のクロノア』と長きにわたり第一線で活躍してきた小沢純子であったりするわけだ。
 折しも80年代前半のナムコは、“黄金期”と呼ばれるほどに傑作を輩出した時期でもあった。多くのゲームマニアから熱狂的な支持を受け、それに合わせて音楽も支持を受けていった。

 そうした支持は、ついにはひとつの頂点を迎えることとなる。
 細野晴臣プロデュースによるレコード化だ。
 細野晴臣率いるイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が大ブームを巻き起こし、惜しまれつつも散開したのが1983年。その翌年、初のゲームミュージック・アルバム『VIDEO GAME MUSIC』が、細野晴臣の手により生み出されたのである。
 これには当時、ゲームのワクを超えた人気を誇っていた『ゼビウス』(ナムコ・1983年)が寄与していたと言われる。『ゼビウス』はゲームそのものの面白さもさることながら、ゲームのストーリーとして小説「ファードラウト」を書き上げるなど、コンピュータ・ゲームがコンピュータ・ゲームにとどまらないことを予感させる作品であった(いわば今日のメディアミックスの元祖とも言える)。そして、『ゼビウス』を手がけた遠藤雅伸は「新人類の旗手」とまで呼ばれ、テレビ番組に出演するなど注目される存在であった。
 そして、細野晴臣も『ゼビウス』に着目し、遠藤雅伸との交友が生まれる。この接点からナムコのゲームミュージックに興味を持ったであろう事は、想像に難くない。

 初のゲームミュージック・アルバム『VIDEO GAME MUSIC』は、驚きをもって迎えられた。
 1曲目の「XEVIOUS」、最終トラックの「GALAGA」こそ、細野の手によりゲームの音を使ったエディットがなされた。しかし、それ以外のタイトルは、ゲームの音がそのまま使われていたのだ。
 それは細野がゲームミュージックに何らかの可能性を感じていたからかもしれないし(かつてYMOでゲームの効果音に似せた音を使ったこともあった)、もしかしたらナムコのカスタム(独自開発)音源から鳴らされるハーモニーに、細野も魅せられたのかもしれない。
 いずれにせよ、いわば“細野のお墨付き”を得たことに、当時のゲームミュージック・マニアは歓喜した。
 ここに“ゲームミュージック”はひとつのジャンルとして芽生え、そしてこのアルバムが、更なるゲームミュージック・マニアを増やすことにもなったのだ。

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