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【12】両雄割拠――ZUNTATAとS.S.T.BAND

 1988年6月21日、サイトロンレーベル第1弾作品として発売された『NINJA WARRIORS -G.S.M.TAITO 1-/ZUNTATA』。アーティスト名としてZUNTATAの名が記されているのは、GMOレーベル時代に続き2作目である。
 収録曲は、『ダライアス』に継ぐ3画面筐体ゲーム第2弾の『ニンジャウォーリアーズ』、凝った演出が話題となったガンシューティング『オペレーションウルフ』、体感レーシング『フルスロットル』、名作『バブルボブル』の続編『レインボーアイランド』…。
 『ダライアス』に続くOGRワールド全開の『ニンジャウォーリアーズ』、隠し面の曲まで収録された『レインボーアイランド』などが、このアルバムの表向きのセールスポイントである。

 しかし、このアルバムには密かに爆弾が仕掛けてあった。
 それはZUNTATAによる『ニンジャウォーリアーズ』のアレンジバージョン、「DADDY MULK」
 フェードインしてくるのは、コンサート会場さながらの大歓声。やがて手拍子と「ズンタ!ズンタ!」というコールに迎えられて、「DADDY MULK」の演奏が始まる。途中の津軽三味線ソロに本物の三味線奏者が彩りを添え、演奏が終わると鳴りやまぬ大歓声が…。そう、ZUNTATAはこの曲で“仮想ライブバージョン”というアレンジを打ち出してきたのである。
 さらにライナーノーツには、このような趣旨のコメントが書かれていた。「いつか『ズンタ・コール』に包まれて、本当にライブをやってみたい」と。
 このアルバムを聴いた誰しもが、心に爆弾を仕掛けられてしまった。
 「いつかライブのステージで、ZUNTATAを観てみたい」という夢を。
 恐らく、前年のセガ・サウンドチームによるイベントでのライブ演奏(【11】1987年、萌芽。参照)に、触発されるものがあったのだろう。仮想ライブバージョンという形で禁断の果実を口にしてしまった以上、ファンもZUNTATAもその夢を止めることはできない。それはまさに“禁断”のアレンジだった。

 遅れて翌月、サイトロンより『GALAXY FORCE -G.S.M.SEGA 1-/S.S.T.BAND』がリリースされる。
 こちらはセガのバンド・S.S.T.BANDのデビュー作として、大きく宣伝された。当時ゲームミュージックの四番打者的存在であったセガにも、ZUNTATAや矩形波倶楽部のように、ついにバンドが誕生。前年のライブ演奏とあわせ、満を持しての登場にいやがおうにも期待は高まった(ただし、この時点ではどちらもバンドとしての体裁は整っておらず、このアルバムでも大部分が打ち込みによるアレンジにとどまっている)。

 その後、タイトーは同年11月21日に『究極TIGER -G.S.M.TAITO 2-』を発表するものの、これは半分は東亜プランのアルバムと言っていい内容で、ZUNTATAのクレジットもなかった。だが、翌89年3月21日発表の『SYVALION -G.S.M.TAITO 3-/ZUNTATA』で確固たる方向性を打ち出し、11月21日発表の『DARIUS II -G.S.M.TAITO 4-/ZUNTATA』において不動の人気を獲得する。とりわけ後者は、OGRが聖書を読みながら作曲したと語る『ダライアスII』と、mar.が内に秘めた反逆衝動を“夜”というテーマを得て爆発させた『ナイトストライカー』、どちらも凄まじい完成度の高さを誇る楽曲群であった。
 一方のセガは、88年12月21日にアルバム『POWER DRIFT & MEGA DRIVE -G.S.M.SEGA 2-/S.S.T.BAND』を発表。体感ゲーム最新作も含むアレンジを4曲収録したこともさることながら、何よりS.S.T.BANDのロゴマークと、アーティスト写真(いわゆる“アー写”)が公表されたことにより、いよいよバンドとしてのパブリックイメージが形成された作品となった。

 S.S.T.BANDは翌89年2月、ドラムなどの加入により、ようやくバンドとしての体裁を整える。そして、あくまでイベントの一環ながら、ついにS.S.T.BANDとしてステージに立ち待望のライブ活動を開始させたのだ。メンバーはセガ・サウンドチームのスタッフと外部ミュージシャンによって構成され、セガからはHiro(Key)とMickey(G)、外部からはHARRIER(Key)、GALAXY(G)、BURNER(B)、THUNDER(Dr)という編成(ちなみに、HARRIERの正体は前述のアルバムのアレンジャーだった松前公高)。外部ミュージシャンは全員セガの体感ゲームのタイトルをもじった名前になっているのがポイントだ。
 ステージでは全員がサングラスを掛け、統一されたコスチュームで一種異様な雰囲気を醸し出していた。これは当時、セガは基本的にゲームの開発スタッフを表に出さず、インタビューなどに際しても顔を隠し偽名を名乗らせていたため(他社からの引き抜き防止が理由と言われている)、その制約を逆手に取ったアピール方法なのかもしれない。しかし、それがバンドにミステリアスな雰囲気を与え、衣装と相まって近未来的な存在感を醸し出していた。
 そうしたライブ活動を経て、同年10月21日には3rdアルバム『SUPER SONIC TEAM -G.S.M.SEGA 3-/S.S.T.BAND』を発表。アレンジャーにCASIOPEAの野呂一生を迎え、本当の意味でバンドとして作り上げた作品は高い評価を受けた。さらに11月には、MZA有明(当時存在したライブハウス・ディスコ。現在は格闘技専用ホール「ディファ有明」)にて初の有料ライブを開催。『ドラゴンクエスト』のオーケストラコンサートなどの前例があるにせよ、「ゲームミュージック・バンドが有料コンサートを開催した」ことは、当時大きな話題となった。

 ZUNTATAとS.S.T.BANDは、まるで競い合うかのように急速に成長を遂げ、ともにファンを増やしていった。まさにこの時代における、ゲームミュージックの“両雄”と言えよう。
 この両雄、その魅力はそれぞれベクトルが異なる点が興味深い。かたやバンドとしてのグルーヴとロックにこだわり、ライブステージに表現の場を求め、燦々と熱い魅力を放った“動”のS.S.T.BAND。かたや一音に至るまで緻密にこだわり、作品としてのトータルの完成度に表現者としての在り方を求め、「完璧」という不到の頂にあえて歩き続ける、求道者然とした“静”のZUNTATA。
 プロ野球でいう長嶋と王、プロレスでいう馬場と猪木、F-1でいうセナとプロスト――そういった相反する、しかしどちらも途方もなく高い魅力を放つライバル同士。そんな関係に近かったのが、ZUNTATAとS.S.T.BANDだったのかもしれない。

【追記】
 89年10月発売のS.S.T.BAND3rd.アルバム、および11月のMZA有明ライブにおいては、メンバーに「獣王」というキーボーディストが加わっていた。しかし、S.S.T.BANDに加入したのはこの時かぎりで、以後全く姿を現していない。また、S.S.T.BANDが7人編成だったのも、この時だけである。

NEXT:【13】G.S.M.1500シリーズという「新兵器」

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【11】1987年、萌芽。

 1987年3月25日、アルファレコードGMOレーベルより、アルバム『コナミック・ゲーム・フリークス(コナミ・ゲーム・ミュージックVOL.3)』『カプコン・ゲーム・ミュージックVOL.2』が発売される。
 このアルバムのジャケットには、それぞれ見慣れないロゴが描かれていた。

“矩形波倶楽部”
“アルフ ライラ ワ ライラ”

 これはゲームのロゴではない。各メーカーのサウンドチームのロゴだった。
 このアルバムでは、両メーカーのサウンド開発スタッフ、つまりは作曲者自身が「コナミ矩形波倶楽部」「アルフ ライラ ワ ライラ」を名乗り、アーティスト名としてアルバムに表記している。おそらくゲームミュージックのアルバムとしては、作曲者がアーティストとしての名前を表記した最初期の作品ではないだろうか(逆に、「作曲者がアレンジした」ことがひとつのトピックになる事実からも、当時のアレンジがいかに作曲者の関わっていないものだったのか…という想像も付く)。
 そして、この両チームを筆頭に、この年――1987年は、ゲームミュージックの作曲者がアーティストとしての自己主張を始めた年と言える。

 6月25日には、アルバム『タイトー・ゲーム・ミュージックVOL.2』が発売。そのオビには、“ダライアス/ズンタタ”と書かれていた。これがタイトーのサウンドチーム、“ZUNTATA”のデビュー作品となる。余談だが、管理人は最初この「ズンタタ」が、何を意味するのかがわからなかった。『ダライアス』はゲームの名前なので、ほかに『ズンタタ』というゲームの曲が入っているのか、と思ってしまった。
 このアルバムでは、ZUNTATAが3曲のアレンジバージョンを手がけている(ほかにコンスタンス・タワーズが2曲を担当)。だが、このアレンジそのものの評価は、当時は芳しくなかった。今までのアレンジバージョンとあまり変わり映えのしない、悪く言えば平凡な仕上がりで、とりたてて印象に残らないというのが正直なところだろう。また、コンスタンス・タワーズのアレンジが原形をほとんど留めていない強烈なものだったことで、相対的に印象が薄れてしまったとも言える。

 一方、コンピュージックの『オリジナル・サウンド・オブ・WEC LE MANS 24』(1987年8月21日発売)では、ゲームを開発したコアランド(現・バンプレスト)のサウンドチームが“DNA be Rock's”を名乗り、ボーカルを取り入れたギターサウンドをアレンジとして収録していた(余談だが“DNA be Rock's”とは、コアランドのバンド→コアバンド→COREBANDをひっくり返した表記が由来となっている)。
 当時のアレンジバージョンは、シンセサイザーで曲を打ち込み直したものがほとんどで、それもあってか「グレードアップバージョン」という呼称もあったほどだ。しかし、そうした流れとは一線を画する尖ったサウンドは、一部マニアの耳に鋭く突き刺さった。

 そして、忘れてはならないのがセガ。
 この年の12月、池袋のサンシャインシティ・噴水広場にて、「アフターバーナー・パニック!」というイベントが行われた。当時、最先端の技術と圧倒的な迫力・スピード感で、ゲーマーはもとより一般人にも絶大な人気を誇ったゲーム『アフターバーナー』。そのイベントにおいて、セガのサウンドチームによる『アフターバーナー』のゲームミュージックのライブ演奏が行われたのだ。
 編成はキーボード×2、ギター、ベース。キーボードは『アフターバーナー』の作曲者であり、『スペースハリアー』『ファンタジーゾーン』『アウトラン』などでその才能を開花させていた“Hiro”と、『カルテット』や『SDI』で独自のセンスを発揮し、当時のマニアにスラップベースの洗礼を施した“ファンキーK.H.”。ギターは当時まだ名前が知られる前の“Mickey”であった。
 ライブは当時のレポートによると、シーケンサーのトラブルで途中から音が出なくなってしまった模様。時節柄、クリスマスソングも披露するなど、あくまでイベントの出し物としての色が強かったようだった。だが、このライブがひとつの契機となり、翌年に繋がることとなる。

 そもそもサウンド開発スタッフは、元々何らかの形で音楽をやってきた人がほとんどである。
 ある者は音大を卒業し、ある者はバンドでのメジャーデビューを諦め、そして就職先としてゲームメーカーを選び、職業としてゲームミュージックを作曲する道を歩んだ。
 しかし、音源の発達による表現力の高まりが、そして確実に裾野を広げつつあるその市場が、彼らスタッフにアーティストとしての“自覚”を萌芽させ、“欲”を持たせる誘い水となったのは、疑いようがない。
 そして翌88年、サイトロンレーベルから二大アーティストが登場する。それは、90年代のゲームミュージック発展期へのプロローグとなる、歴史的な出来事なのだった。

NEXT:【12】両雄割拠――ZUNTATAとS.S.T.BAND

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【訂正】
 上記中、『コナミック・ゲーム・フリークス』を「作曲者がアーティストとしての名前を表記した最初の作品」と書いていたが、正しくは『カプコン・ゲーム・ミュージック(第一作もしくはVOL.2)』にて、カプコンのサウンドチーム「アルフ ライラ ワ ライラ」の名前が先に出ていた(VOL.1は未確認だが、少なくとも『コナミック・ゲーム・フリークス』と同日発売の『カプコン・ゲーム・ミュージックVOL.2』には「アルフ ライラ ワ ライラ」の名前が出ていた)。お詫びして訂正する。

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【10】誰が為にゲームミュージックはアレンジされる

 ここ最近は80年代終盤についての記事ばかり掲載してきたが、ここで時計の針をいったんゲームミュージックの創生期、1984年頃に戻したい。

 さて、ゲームミュージックには他の音楽にはない、独自の言い回しがある。それが「オリジナルバージョン」「アレンジバージョン」というものだ。「オリジナルバージョン」とはゲーム中に流れる音楽そのものを指し、「アレンジバージョン」とはその楽曲を別の音源でカバーすることを表す。
 そもそも、創生期のゲームミュージックに使われた“楽器”はナムコのカスタム音源であり、さらにはPSGやFM音源などが音を鳴らす源であった。これらは当時の技術的問題もあり、機能に大変な制約があった。PSGやカスタム音源の音色は、まさに電子音と呼ぶにふさわしいものがあり、その後FM音源になって擬似的に一般的な楽器の音が再現できるようになったものの、それもあくまで擬似的な音でしかない。この辺の説明は、世の中にはもっともっと詳しいサイトがあるだろうので、そちらを参照されたい。
 ともあれ、そうした音色の貧弱さから、シンセサイザーなどでゲームミュージックをカバーした「アレンジバージョン」という手法が、当時発明されたのだろう。

 記念すべき最初のゲームミュージック・アルバム『VIDEO GAME MUSIC』は、日本におけるテクノの旗手・YMOの元リーダー、細野晴臣のプロデュース。オリジナルバージョンのほか、「XEVIOUS」「GALAGA」では独自のアレンジが施され、純粋なサウンドトラックからは微妙に軸をズラした作品に仕上がった。当時はあくまで、“細野晴臣が手がける次世代の電子音楽”といったニュアンスの作品だったのだ。
 次の『SUPER XEVIOUS』は、完全に細野が自ら編曲した作品で、このレコードこそが“アレンジバージョン”の始祖、と言えるだろう。さらに『THE RETURN OF VIDEO GAME MUSIC』は、細野こそ関わっていないもののゲルニカの上野耕路らが参加しており、A面をオリジナルサウンド中心(ただし1曲目の「FANFARE FROM POLE POSITION II」のみアレンジ曲)、B面はナムコのサウンドクリエイターらによるオリジナル曲、という変わった体裁が採られた(しかも上野のオリジナル曲まで収録されている)。
 このように、初期三部作の時から、すでにゲームミュージックはアレンジバージョンとともにあった。ただし、そこに細野や上野の「アーティストとしての主張」も一枚噛んでいた点には、留意すべきである。当時はいずれも、まだ純然たるゲームミュージックのサントラではなかったのだ。

 その後、GMOレーベルが発足し、ゲームミュージックのサントラ作品が毎月安定してリリースされるようになる。このGMOのアルバムにもアレンジ曲が収録されることが多く、他社のゲームミュージック・アルバムもそれに倣うことで、オリジナル曲+数曲のアレンジ曲というスタンスが浸透していった。
 また、家庭用ゲーム機やパソコンのゲームミュージックになると、アレンジの割合はさらに高まる。購買層がマニアのみにとどまらない『スーパーマリオブラザーズ』や『ドラゴンクエスト』関連のアルバムでは、 アレンジされた曲がメインでオリジナルはオマケ…というスタイルも珍しくなかった。中には『オリジナル・サウンド・オブ・シルフィード』などのように、アレンジバージョンしか収録されていない作品すら存在した。アーケードが主体のGMOのアルバムでも、その中に家庭用ゲーム機の曲を 、アレンジバージョンのみで収録していることも多い。
 これは当時、家庭用ゲーム機やパソコンの音源が、アーケード基板に比べまだまだ貧弱だったことが要因と言える。また、アーケードと違って「家で遊べるゲームのオリジナル曲は、その気になれば家でいつでも聴ける」という事情も、オリジナルの収録に水をさした一因だったのかもしれない。

 こうして、ゲームミュージックにおいてアレンジバージョンが切っても切れない関係になりつつあった創生期だが、その実マニアの反応は様々であった。
 というのも、1曲でも多くオリジナルのゲームミュージックを聴きたいマニアにとって、アレンジ曲は本筋ではない副産物でしかない。それを入れるくらいなら他のゲームのオリジナルバージョンを入れろ、という声が一部マニアの本音だったのだ(【4】GMOレーベルの隆盛の中でも参照のこと)。

 そうなると、当時のゲームミュージックにおけるアレンジバージョンの存在意義とは、一体どこにあるのか。
 前述のように、チープな電子音がレコードとしてどれほどの需要があるのか、レコード会社にとって雲をつかむような話であった創生期には、そうした問題点を解消するために「チープな電子音ばかりではありませんよ」とのアピールに使われる役割があったと言える。リリースにこぎ着けるべく、“お上”を説得するための材料としての側面もあったことだろう。
 ただ、実際世に出てみると、アレンジに対する評価は賛否両論。オリジナル派は「“チープな電子音”も含めて曲を愛している」「ゲーセンではよく聞こえなかった曲をクリアに聴きたい」という信念を持ち、アレンジ派は「一介のゲーム音楽に翼を与え、枷から解き放つ魔法である」という期待を胸に抱いていた。ただ、レコード化の機会が極めて限られていた当時、オリジナル派はニューアルバムの発表があるたびに一喜一憂し、自分の好きなゲームの曲が収録されなかったときは、怒りの矛先をアレンジバージョンに向けざるを得なかったのも事実だ。
 当時のアレンジバージョンは、一体誰のためにあったのか。それはファンのためであるはずだし、ファンのためであらねばならない。しかし実情は、ファンとは異なる“世間”のために必要であったのかもしれない。

 だが、こうした情勢は80年代後半に様変わりすることになる。
 そのきっかけは1987年にあるのだが、これは次の記事で取り上げたい。

NEXT:【11】1987年、萌芽。

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【9】理想郷への脱出

 これまでも触れてきたように、80年代後半はゲームミュージック界において、大きな業界再編の波が押し寄せた時期であった。
 特に1988~89年は、サイトロンレーベルが発足し、またコナミのキングレコードへの一本化、ナムコとビクター音楽産業(当時)の蜜月と、コンピュージックも交えると大きな四本の柱が立てられた年になる。この四本の柱が、90年代のゲームミュージック界を牽引していくことになるのだ。

 しかし、88年にはもう一つ、ゲームミュージック関連のレーベルが発足している。
 それがレコード会社・ポリスターのゲーム音楽レーベル、「DATAM(データム)」だ。「DATAM」とは「DATA MUSIC」の略で、当時のロゴの下に小さくその表記がある。
 データムレーベルは1988年4月21日、アルバム『ソーサリアン全曲集 ALL SOUNDS OF SORCERIAN』を最初にリリース。その後、まだサイトロンからアルバムをリリースしていなかったデータイーストを取り上げた『デコ・ヒストリー DATA EAST GAME MUSIC SCENE ONE』、そして『ドラゴンクエスト』シリーズにまさに並び立とうとしていた『ファイナルファンタジー』を取り上げた、『ALL SOUNDS OF FINAL FANTASY I・II』と、精力的にアルバムを世に送り出していった。
 そのタイトル数は、『ALL SOUNDS OF ~』シリーズを軸に、88年だけでも5作。翌89年は9作と、当時のビクターと比べても早いペースで、ゲームミュージックのアルバムを作り続けていたのだ。

 データムレーベルの初期に見られた特徴として、まだ発売に至っていないゲームの曲を事前に収録し、いち早くリリースしていた点が挙げられる。
 例えば、前述の『デコ・ヒストリー』では、発売間もない(あるいは発売されていない?)データイーストの野球ゲーム『スタジアムヒーロー』を、『新作野球ゲーム』として収録している。しかもタイトルを伏せ字にし、そのタイトルを当てるクイズを出題。回答を募集し、正解者から抽選でアルバム未収録曲を収録したカセットテープをプレゼントするという企画を行っていたのだ。

 キラータイトルとなり得るFFシリーズまでも擁し、データムレーベルは順風満帆に発展していった…のかと言えば、じつはそうでもなかった。
 『ソーサリアン全曲集』はキングレコードの『ミュージック・フロム・ソーサリアン』と同日発売となり、その後のリリースペースにおいては完全に水を空けられてしまった。また、FFシリーズは服部克久父子の編曲と東京交響楽団の演奏による『交響組曲ファイナルファンタジー』を発売したものの、その後『ファイナルファンタジーIII』以降のサントラはNTT出版に移行することとなり、データムは『悠久の風伝説』という『~III』のアレンジアルバムを発売するにとどまった。
 他には『ラストハルマゲドン』『サイ・オ・ブレード』『サバッシュ』『サーク』など、当時のパソコンゲーム人気作のサントラを数多く手がけてきた。しかし、パソコンのゲームミュージックは当時、日本ファルコムが抜きんでた存在であり、それ以外のパソコンゲームはゲームミュージックにそれほど高い人気があるとは言えない情勢だった。
 また、上記のものも含めアルバム化するタイトルは比較的マイナーなものも多く、例えば東亜プランの『ワードナーの森』『ダッシュ野郎』『TATSUJIN』『ヘルファイヤー』などは、この時期のデータムがCD化しなければ、恐らく今までも、これからもCDとしては陽の目を見なかったと思われる。一部のマニアにとっては実に有難いCD化なのだが、音楽的な質は別にして、やはり大多数の「有名メーカーの曲ぐらいしか知らない」ファンや世間一般への訴求力としては、弱かったと言わざるを得ない。

 このように、データムは『ソーサリアン』や『ファイナルファンタジー』シリーズなどに早々に目を付けるも、やがて他社に奪われてしまうという痛手が続いた。また、パソコンゲームを中心とした他のゲームミュージック・アルバムも、看板となり得るタイトルに恵まれず、他のゲームミュージック・レーベルからは二歩も三歩も後れを取ることとなる。
 そんな最中、1990年にデータムレーベルは思い切った打開策に打って出る。
 なんと、母体であるレコード会社・ポリスターから独立し、「株式会社データム・ポリスター」を設立するのだ。果たしてそれは“ポリスター”という会社のワクから抜け出る必要があったからなのか。その独立に至る経緯は定かではない。
 ともあれ、独立後もそのスタンスは変わらず、パソコンゲームのサントラを中心に、『オウガバトル』シリーズなど新たなカードも手に収め、CDをリリースしていった。
 また、92年からは自社でゲームソフトの開発・販売も開始。年に1~3作のゲームソフトをリリースし、それに付随するサントラも自社で販売するという“自給自足”とも言うべき方法論を、いち早く確立・実践したのだ。同社は97年に『ルームメイト~井上涼子~』がヒットし、自社ブランドとしては初めてとも言うべき看板タイトルを手に入れることとなる。
 その後も美少女ゲーム(アダルトゲームにあらず)を中心に作品をリリースし、現在まで息の長い活躍を見せている。

 ゲームメーカーが自社でレーベルやレコード会社を持つようになったのは、わりに最近の話である。しかし、データム・ポリスターはその“自給自足”スタイルを、90年代初頭から実現させていた。そして時代の荒波を乗り越え、その牙城を今もって護り続けているのは、驚嘆に値すると言ってもいいだろう。
 あるべき理想をいち早くつかんだデータム・ポリスターは、今年5月に創立18年目を迎える。

NEXT:【10】誰が為にゲームミュージックはアレンジされる

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【8】三つ巴のナムコ争奪戦

 「【1】ゲームミュージックはナムコから始まった」でも触れたように、ナムコはゲームミュージックの始祖的存在であり、またいち早くその楽曲がレコード化された、まさしくパイオニア的存在である。
 しかし、初期三部作と呼ばれる『VIDEO GAME MUSIC』『SUPER XEVIOUS』『THE RETURN OF VIDEO GAME MUSIC』のリリース以後、いわゆるサントラにあたるアルバムがパタッと途絶えてしまう。
 1986年3月21日に、ビクター音楽産業(当時、以下ビクター)より『ビデオ・ゲーム・グラフィティ』というアルバムが発表されるものの、こちらはアレンジをメインとした企画アルバムであり、サントラとしての機能は極めて低い(『モトス』や『源平討魔伝』などの原曲のうち、わずかなフレーズが収録されているのみ)。このアルバム自体の評価は高いものの、いわゆるナムコゲームのサントラは85年6月25日以降、かなりの長期間にわたり発売されなかったのだ。

 その沈黙が破られたのが、2年後の87年。GMOレーベルより7月25日に『ナムコ・ゲーム・ミュージックVOL.1』が、8月25日に同『VOL.2』が、相次いで発売される。この2年間は、ちょうどナムコがカスタム音源からFM音源に移行した時期であり、収録された計10タイトルは、まさにその過渡期を物語る作品群と言える。『VOL.2』には、カスタム音源仕様の『スカイキッド』とFM音源仕様の『スカイキッドDX』を同時収録し、マニアに喜ばれた。
 しかし、その2ヵ月後の10月21日、ビクターより発売された『ビデオ・ゲーム・グラフィティVol.2』には、誰もが驚いた。前作のバラエティ路線を捨て、当時の話題作『ドラゴンスピリット』をはじめとする3作のオリジナルバージョンを収録した“サントラ作品”へと変貌を遂げたのだ。アレンジバージョンでは前作のバラエティ路線を意識したものも見られたが(『ワンダーモモ』のボーカルアレンジなど)、アレンジバージョンそのものが計3曲と大幅に縮小されており、以降このスタイル(新作ゲームのオリジナル+別ゲームのアレンジ数曲)がフォーマットとなる。

 こうなると、ナムコの今後のサントラ作品はどのレコード会社がアルバム化するのか、俄然注目されることとなった。『ビデオ・ゲーム・グラフィティ』が『Vol.2』を名乗ったことは、Vol.3以降もリリースされる可能性が大きいからだ。
 果たして翌88年12月16日には、ビクターより『ビデオ・ゲーム・グラフィティVol.3』がリリースされる。しかし、そのわずか5日後の12月21日には、サイトロンから『未来忍者 -G.S.M.NAMCO 1-』がリリース。かたやナムコの新基板“システムII”の第1弾作品『アサルト』を含むサントラ、かたやナムコが手がけた映像作品のサントラ+同名ゲームのサントラと、まさに正面からの一騎打ちのような状態だ。
 以降も、しばらくはビクターとサイトロンの共存体制が続くことになる。

 ◇ビデオ・ゲーム・グラフィティVol.4 (1989/3/8) 
 ●Winning Run -G.S.M.NAMCO 2- (1989/7/21)
 ◇ビデオ・ゲーム・グラフィティVol.5 (1989/8/21)
 ◇ワルキューレの伝説 (1989/9/21)
 ◇ビデオ・ゲーム・グラフィティVol.6 (1989/10/4)
 ●ダートフォックス (1989/11/21)
 ◇バーニングフォース (1990/2/7)
 ●マーベルランド (1990/5/21)
 ◇ファイネストアワー (1990/9/21)
 ●FINAL LAP 2 -G.S.M.NAMCO 3- (1990/9/21)

 ●印がサイトロン、◇印がビクターからのリリースを表す。
 ビクターはゲームに関してはナムコ作品に専念していたため、他に多数のメーカーを抱えていたサイトロンと比べると、リリースのペースは速い。しかし、都合二年間にわたり、2社がほぼ交互にCDを発売していたというのは興味深いところだろう。
 コナミが89年にはビデオやアルバムをキングレコードに一本化していたことを考えると、90年に入ってもこうした事態が続くのは異例とも言えた。

 しかし、最終的にはナムコ専任ということの強みが勝ったのか、アルバムとしては『FINAL LAP 2 -G.S.M.NAMCO 3-』を最後に、ナムコはサイトロンから離れることとなる。サイトロンからは、91年4月21日にビデオ『TVゲームの歴史 ナムコ編』がリリースされるものの、これは“TVゲームの歴史”シリーズの一作品と言え、カムバックと言うには及ばない。
 だが、以降もサイトロンとビクターは切磋琢磨を続け、その中でゲームミュージックのサントラに革命を起こすことになるのだが、それはまた別の機会に触れたい。

 ちなみに、タイトルにある“三つ巴”だが、じつはこの両陣営に割って入ったレーベルがある。何を隠そう、「コンピュージック」のアポロン音楽工業だ。
 とはいえ、コンピュージックからリリースされたナムコ作品は、下記の3点のみ。

 ★ドラゴンスピリット~エモーショナル・サウンド・オブ・ナムコット~ (1989/2/5
 ★
This is NAMCO! (1990/9/21)
 ★765MEGA-MIX (1991/7/21)

 『This is NAMCO!』は往時の『ビデオ・ゲーム・グラフィティ』を彷彿とさせるバラエティに富んだアレンジ集、『765MEGA-MIX』は文字通りのテクノ風リミックス作品、そしてドラゴンスピリットは、なんとPCエンジン版のサントラである。
 いずれも単発の企画物作品であり、残念ながらシリーズとして続くことはなく、サイトロンとビクターの2社を脅かすには至らなかった。

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