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【15】80年代から90年代へ―― ZUNTATA・S.S.T.包囲網

 89年はS.S.T.BANDの有料ライブ実施などで、一気にライブという場での表現の気運が高まってきた年であった。
 もちろん、同じ表現者として、他のゲームメーカーのサウンドチームの中にも野心を抱いていた者は少なくない。それがアレンジなどで発露し、さらにはバンドの結成など、活発な動きに繋がっていく。
 90年代、ゲームミュージックが大きく飛翔する前夜。そこではすでに、胎動が始まっていたのだ。

【コナミ矩形波倶楽部】
 88年から徐々にキングレコードへの移行を始め、1989年5月21日発売のアルバム『サンダークロス』にて、ついにコナミレーベルを始動させたコナミ(【7】キングレコードの進出とコナミの選択参照)。その後、同年7月21日に『コナミ・ゲーム・ミュージック・コレクションVOL.0』をリリースしたものの、本格的な活動は翌年以降となる。
 しかし、同年10月、コナミ矩形波倶楽部は未来を見すえ、あるイベントを行った。
 それは「招待制スタジオライブ」である。88年のZUNTATAのライブ風アレンジや、89年のS.S.T.BANDの初ステージ(【12】両雄割拠――ZUNTATAとS.S.T.BAND参照)と、当時の主要メーカーのうち2社がライブというキーワードのもとに活動していた当時。主要メーカーの一翼を担うコナミとしても、黙ってはいられなかったのかもしれない。あくまでもクローズドな招待制、しかもキングレコードのスタジオを用いたスタジオライブという小規模なイベントであるが、事実上“オーディエンスの前でライブを行った、S.S.T.BANDに続く2組目のバンド”ということになる。

 もともとコナミ矩形波倶楽部の中心人物である古川もとあきは、アマチュア時代にバンド「VOYAGER」を率い、“コンテスト荒らし”と称されていたほどの凄腕のギタリスト。ゲームミュージックにおいても『グラディウスII』『A-JAX』を手がけ、ゲームミュージック・ファンからも多くの支持を集めていた。
 ZUNTATAやS.S.T.BANDが思い描いていたように、彼もまたライブという形での表現を夢見ていたことは、想像に難くない。このスタジオライブは約1時間、全7曲という控えめのボリュームであったが、次なるレベルへの第一歩となったことだろう(ちなみに、コナミ矩形波倶楽部もS.S.T.BANDと同じく全員がサングラスを掛け、全員が同じシャツを着用していた)。

【アルフ ライラ ワ ライラ】
 カプコンのサウンドチーム「アルフ ライラ ワ ライラ」は、GMOレーベル時代のアルバム『カプコン・ゲーム・ミュージックVOL.2』の頃からジャケットにロゴが描かれていた(その前の『カプコン・ゲーム・ミュージックVOL.1』より名前は出ていたと言われているが、自分の不勉強ゆえ詳細はわからず)。ちなみに『~VOL.2』は、コナミ矩形波倶楽部がその名前を出した『コナミック・ゲーム・フリークス』と同時発売であり、以前の記事(【11】1987年、萌芽。)でそれを「作曲者がアーティストとしての名前を表記した最初の作品」と書いてしまったが、その実カプコンも時を同じくして、名前を出していたことになる(さらに厳密に言えば、初期三部作でナムコも作曲者名を表記しているが、それはあえてここでは取り上げない)。
 その後、サイトロンに移籍して『大魔界村 -G.S.M.CAPCOM 2-/アルフ ライラ ワ ライラ』『ストライダー飛竜 -G.S.M.CAPCOM 2-/アルフ ライラ ワ ライラ』をリリース。アルフ ライラ ワ ライラによるアレンジは、いずれも高い評価を得ている。

 しかし、ゲームミュージックとしての評価は、セガやタイトーら主要4社の後塵を拝するにとどまっていた。ゲームそのものは、当時のシステム基板「CPシステム」の高性能のもと、大ヒットを連発していたが、音楽面ではいまひとつアピールに欠けていた点は否めないだろう(そもそもBGMに徹した曲が多かったことも、その一因ではある)。また、アルフ ライラ ワ ライラはあくまでもサウンドチームであり、他と違ってあまりライブという表現方法にベクトルが向いていなかったようにも思える(ちなみに“女性4人組”ということが同チームのウリであったが、彼女らがほとんど表に出てこないこともあり、それがセールスに繋がったかどうかには疑問が残る)。

 こうした状況は、結果的に90年代に入っても続くのだが、後にある作品の大ヒットにより、その状況も大きく変わることとなる。

【ガブリンサウンド】
 まさに「知る人ぞ知る」といったサウンドチーム。ポリスターのDATAMレーベル(【9】理想郷への脱出参照)よりリリースされた、セタのアルバム『ツインイーグル&スーパーリアル麻雀PIII SETA GAME MUSIC SCENE ONE』にて、初めてその名が表に出たと思われる。
 衝撃的だったのは、その1曲目である『ツインイーグル』のアレンジ「Early Warning(Can't sleep over 3 hours)」。伸びやかなボーカル、しかも日本語詞による歌は、フュージョン志向の強かった当時には珍しいロック調の曲だった。コンピュージックの『WEC LE MANS 24』や『ダブルドラゴン』のアルバムと並び、80年代の名ボーカルアレンジ曲と言えるだろう。
 しかし、当時のセタは『スーパーリアル麻雀』シリーズで高い技術力を誇示し、知名度もあったものの、いかんせんまだ脱衣麻雀ゲームにはアンダーグラウンドの香りが強く漂っていた時代。また、『ツインイーグル』など他のゲームはヒットには恵まれず、結果的に当時のメジャーなメーカーの陰に隠れる形となってしまった。

 ガブリンサウンド自身は、その後「Opus Corp.」に加入し、家庭用ゲーム機を中心に活躍。だが、ガブリンサウンドとして「Early Warning(Can't sleep over 3 hours)」で遺していった強い自己主張の種は、確かなDNAとなって、その後のゲームミュージック界に息づいていると言ってもいいだろう。

 こうしたゲームミュージックのアレンジ、および作曲者の表への露出は、もちろん作曲者たち自身の表現欲を満たすためのものではある。だが、同時にそれはゲームメーカーにとっても、格好の宣伝素材となっていた。
 それまでゲームの人気を決める要素は、「ゲームが面白いか否か」しかなかった。それが表現力の高まりに伴って、グラフィックの美しさ、操作の遊びやすさ、そしてゲームミュージックの善し悪しまでもが、ゲームの人気に影響を及ぼす時代になってきたのだ。
 さらに、作曲者名を明らかにすること(例え本名ではなくとも)により、その作曲者自身にファンが発生するといった効果も生まれた。中にはゲームそのものの面白さよりも、「○○さんが作曲したゲーム」として知名度を上げていったゲームも少なからず存在する。当時“音ゲー”“曲ゲー”なる言葉も生まれていたのだが、これは現在の「音楽を題材にしたゲーム」のことではなく、「音や曲はいいけど、肝心のゲームが面白くないゲーム」という意味。それくらい、当時のゲームにとってゲームミュージックの占める重要性は、大きくなっていたのだ。

 そして80年代に溜まりに溜まったエネルギーは、熱いマグマとなって、噴火の時を待っていた。
 1980年、初のゲームミュージックを奏でた『ラリーX』から10年。
 ゲームミュージックの誕生からアルバム化までを駆け抜けた80年代が終わり、時代はいよいよ“さらに上”を見すえる90年代へと突入していく。

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