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【17】GMF'90という名の“革命”前夜

 1990年6月、大ニュースが飛び込んできた。
 8月25日、日本青年館にてS.S.T.BANDとZUNTATAがライブで競演する一大イベント「ゲームミュージックフェスティバル(GMF)'90」が開催されることとなったのだ。キャパシティ1,300人を数える名門的会場で、しかもS.S.T.BANDとZUNTATAの両方のライブが見られるという、まさしく“夢のイベント”と言うにふさわしい顔合わせに、ゲームミュージック・ファンは期待に胸を震わせた。

 ここで、この前後のS.S.T.BANDおよびZUNTATAの動きを追ってみる。

【S.S.T.BAND】
 S.S.T.BANDは前年12月に、初のベストアルバムとなる『MEGA SELECTION』をリリース。このアルバムのみの新曲として「OPA-OPA!」が収録されていたが、打ち込み中心の内容(1stアルバム『GALAXY FORCE』収録の「MAGICAL SOUND SHOWER」を思わせるアレンジ)ということもあり、この頃S.S.T.BANDが向いていた方向性とはあまり重なるものがなかった(そのアレンジから、あるいは1stアルバム収録予定ながらボツになった曲を入れたのかも知れない)。

 明けて90年6月、GMF'90の報せとほぼ同時期に、1500シリーズにて『AFTER BURNER/S.S.T.BAND』をリリースする。
 すでにGMOレーベル時代にリリース済みだった『アフターバーナー』の再リリース作品だが、GMOのものとは異なり実際にゲーム中に使用されている曲(メロディが省かれたバージョン)を収録。さらにS.E.集が入れられ、これで単体作品としてリリースする“表向きの”理由は揃った。
 だが、実際のところ大きなポイントとしては、アレンジバージョンでのS.S.T.BANDメンバー「TURBO君」のお披露目にあったと言える。
 前任のBURNERからベーシストを引き継いだTURBO君(この名もセガのゲーム『ターボアウトラン』に掛けたもの。ちなみに「君」までが名前)は、スラップベースの名手としてその個性を発揮。さらには、それ以上にその人柄がS.S.T.BANDにとっての起爆剤となるのだが、それはまた別の機会に述べたい。いずれにせよ、彼の加入でバンドとして大きくパワーアップしたことは、疑いようがない。このCDでも、「MAXIMUM POWER~RED OUT」のアレンジの他、新メンバーで録音し直した「AFTER BURNER(VERSION II)」が収録されている。
 さらにライブ直前となる7月21日には、4枚目のアルバム『HYPER DRIVE -G.S.M.SEGA 4-/S.S.T.BAND』をリリースする。前作に引き続き、アレンジャーにCASIOPEAの野呂一生を迎え、「AIR BATTLE」(G-LOC)、「WILDERNESS」(ゴールデンアックス)、「SPRINTER」(スーパーハングオン)など5曲をアレンジ。オリジナルも『G-LOC』ほか4タイトルが収録され、第3期S.S.T.BANDとしての充実ぶりを感じさせる内容となった。また、解説書でのMickeyのコメント「8/25日本青年館でまってるぜ!」は、まさに“動”のS.S.T.BANDの面目躍如と言えよう。

 初の大規模なライブということもあってか、この頃はインタビューなどでメディアへの露出も増加。ライブ直前には、伊豆高原大室山にて一週間の合宿も行うなど、ゲームミュージック・バンドの顔としての期待と責任が、彼らを着実に逞しく鍛えていったはずだ。
 来るべき祭に向けて、S.S.T.BANDはまさに準備万端であった。

【ZUNTATA】
 ZUNTATAは、前年11月21日にリリースした『DARIUS II -G.S.M.TAITO 4-/ZUNTATA』の余韻が、まだ色濃く残っていた。CDのリリースも、90年は4月21日に1500シリーズにて『S.C.I.』をリリースしたものの、アレンジの収録はナシ。
 そして本当の意味でライブ直前となった8月21日、5枚目のアルバム『TAITO DJ STATION -G.S.M.TAITO 5-』をリリースするも、こちらは2枚目のアルバム『究極タイガー』と同様にZUNTATAのクレジットはなく、アレンジも1曲たりとも収録されていない。その上、サイトロン提供のラジオ番組(【6】サイトロンレーベルの勃興とGMOレーベルの終焉参照)でDJを担当した、バッキー木場による曲紹介が挿入されるなど、今までの作品とは明らかにベクトルが異なっていた。
 そのうえ、初回版には8cmCDが同梱されており、そちらにはなんとZUNTATAメンバーによるコメディを収録。その内容も、「タイトーに電話を掛けてきた迷惑なファンの話」や「口で効果音を奏でる『サラリーマンコンポーザー講座』」など、とても素人とは思えない演技と脚本で、非常にクオリティの高いものだった。とはいえ、それまで音楽というフィールドで強烈な存在感を見せつけてきたZUNTATAにあって、この作品はファンの目には奇異に映ったことは間違いない。

 …このように、実際のところ音楽面では『DARIUS II』以降大きな動きはなく、ZUNTATAとしては沈黙を守り続けている状況だった。だが、これがかえってS.S.T.BANDと違い、「当日は何をしてくるのだろうか?」といった未知なる期待感を醸し出すこととなった。
 ライブ経験はないにしろ、積み重ねてきた楽曲のクオリティの高さは誰もが知るところ。それがライブという場を得て、どのように表現されるのか。ファンの興味は尽きることがなかった。

 ところで、当時S.S.T.BANDとZUNTATAのライブに多大なる期待が寄せられたのには、単なるファンとしての期待にとどまらない、隠れた理由がある。
 当時のゲームミュージックが、ひいては当時のゲーム界そのものが密かに隠し持っていたテーマが、「どれだけ世間一般にアピールできるか」であったからだ。

 それは元々がPSGやFM音源といった、生楽器にはほど遠い簡素な音源で鳴らされていたことへのコンプレックスなのかもしれない。今でこそチップチューンという言葉もできるぐらい、世間一般の認識も変わってきたが、当時あの音源で鳴らされた曲は「ピコピコ」の一言で片付けられていた。この言葉には、「所詮おもちゃ」といった蔑みの視線も、多分に含まれている。
 さらには、ゲームミュージックを聴く人間は、世間的に「オタク」の一言で片付けられてしまっていた(丁度「オタク」という言葉が広く認知されるようになったのが、前年の89年)。これはこれで、じつはゲームミュージックを聴く側にも問題がないとは言えず(意外に思われるかもしれないが、当時は「ゲームミュージックしか聴かない・聴いたことがない」という人がかなり多かった)、そうした部分で世間との隔たりは間違いなくあった。
 その後の音源の発達、アレンジというジャンルへの注力も、ゲームミュージックが“ゲームミュージック”という殻から脱却するためであったし、90年代に入ってそれがより世間一般へのアピールにベクトルが向いたのも、世間的なレッテルを剥がしたいというファンの「抵抗運動」がエネルギーに加わった事による部分が大きい。
 主なファン層は10代の学生だったこともあり、自らへのレッテルを自嘲したり笑い飛ばしたりするには、まだ若かった。その分、本当に真面目にゲームミュージックを愛していたし、ゲームミュージックというものに対する偏見を取り除こうと必死だった。それが、この当時の熱狂の正体である――と、片田舎でこの熱に当てられていた自分は考えている。

 満を持して行われる「ゲームミュージックフェスティバル'90」。
 それはまさに革命前夜のように、密やかな期待感がふつふつと沸騰寸前であった。

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