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【17】GMF'90という名の“革命”前夜

 1990年6月、大ニュースが飛び込んできた。
 8月25日、日本青年館にてS.S.T.BANDとZUNTATAがライブで競演する一大イベント「ゲームミュージックフェスティバル(GMF)'90」が開催されることとなったのだ。キャパシティ1,300人を数える名門的会場で、しかもS.S.T.BANDとZUNTATAの両方のライブが見られるという、まさしく“夢のイベント”と言うにふさわしい顔合わせに、ゲームミュージック・ファンは期待に胸を震わせた。

 ここで、この前後のS.S.T.BANDおよびZUNTATAの動きを追ってみる。

【S.S.T.BAND】
 S.S.T.BANDは前年12月に、初のベストアルバムとなる『MEGA SELECTION』をリリース。このアルバムのみの新曲として「OPA-OPA!」が収録されていたが、打ち込み中心の内容(1stアルバム『GALAXY FORCE』収録の「MAGICAL SOUND SHOWER」を思わせるアレンジ)ということもあり、この頃S.S.T.BANDが向いていた方向性とはあまり重なるものがなかった(そのアレンジから、あるいは1stアルバム収録予定ながらボツになった曲を入れたのかも知れない)。

 明けて90年6月、GMF'90の報せとほぼ同時期に、1500シリーズにて『AFTER BURNER/S.S.T.BAND』をリリースする。
 すでにGMOレーベル時代にリリース済みだった『アフターバーナー』の再リリース作品だが、GMOのものとは異なり実際にゲーム中に使用されている曲(メロディが省かれたバージョン)を収録。さらにS.E.集が入れられ、これで単体作品としてリリースする“表向きの”理由は揃った。
 だが、実際のところ大きなポイントとしては、アレンジバージョンでのS.S.T.BANDメンバー「TURBO君」のお披露目にあったと言える。
 前任のBURNERからベーシストを引き継いだTURBO君(この名もセガのゲーム『ターボアウトラン』に掛けたもの。ちなみに「君」までが名前)は、スラップベースの名手としてその個性を発揮。さらには、それ以上にその人柄がS.S.T.BANDにとっての起爆剤となるのだが、それはまた別の機会に述べたい。いずれにせよ、彼の加入でバンドとして大きくパワーアップしたことは、疑いようがない。このCDでも、「MAXIMUM POWER~RED OUT」のアレンジの他、新メンバーで録音し直した「AFTER BURNER(VERSION II)」が収録されている。
 さらにライブ直前となる7月21日には、4枚目のアルバム『HYPER DRIVE -G.S.M.SEGA 4-/S.S.T.BAND』をリリースする。前作に引き続き、アレンジャーにCASIOPEAの野呂一生を迎え、「AIR BATTLE」(G-LOC)、「WILDERNESS」(ゴールデンアックス)、「SPRINTER」(スーパーハングオン)など5曲をアレンジ。オリジナルも『G-LOC』ほか4タイトルが収録され、第3期S.S.T.BANDとしての充実ぶりを感じさせる内容となった。また、解説書でのMickeyのコメント「8/25日本青年館でまってるぜ!」は、まさに“動”のS.S.T.BANDの面目躍如と言えよう。

 初の大規模なライブということもあってか、この頃はインタビューなどでメディアへの露出も増加。ライブ直前には、伊豆高原大室山にて一週間の合宿も行うなど、ゲームミュージック・バンドの顔としての期待と責任が、彼らを着実に逞しく鍛えていったはずだ。
 来るべき祭に向けて、S.S.T.BANDはまさに準備万端であった。

【ZUNTATA】
 ZUNTATAは、前年11月21日にリリースした『DARIUS II -G.S.M.TAITO 4-/ZUNTATA』の余韻が、まだ色濃く残っていた。CDのリリースも、90年は4月21日に1500シリーズにて『S.C.I.』をリリースしたものの、アレンジの収録はナシ。
 そして本当の意味でライブ直前となった8月21日、5枚目のアルバム『TAITO DJ STATION -G.S.M.TAITO 5-』をリリースするも、こちらは2枚目のアルバム『究極タイガー』と同様にZUNTATAのクレジットはなく、アレンジも1曲たりとも収録されていない。その上、サイトロン提供のラジオ番組(【6】サイトロンレーベルの勃興とGMOレーベルの終焉参照)でDJを担当した、バッキー木場による曲紹介が挿入されるなど、今までの作品とは明らかにベクトルが異なっていた。
 そのうえ、初回版には8cmCDが同梱されており、そちらにはなんとZUNTATAメンバーによるコメディを収録。その内容も、「タイトーに電話を掛けてきた迷惑なファンの話」や「口で効果音を奏でる『サラリーマンコンポーザー講座』」など、とても素人とは思えない演技と脚本で、非常にクオリティの高いものだった。とはいえ、それまで音楽というフィールドで強烈な存在感を見せつけてきたZUNTATAにあって、この作品はファンの目には奇異に映ったことは間違いない。

 …このように、実際のところ音楽面では『DARIUS II』以降大きな動きはなく、ZUNTATAとしては沈黙を守り続けている状況だった。だが、これがかえってS.S.T.BANDと違い、「当日は何をしてくるのだろうか?」といった未知なる期待感を醸し出すこととなった。
 ライブ経験はないにしろ、積み重ねてきた楽曲のクオリティの高さは誰もが知るところ。それがライブという場を得て、どのように表現されるのか。ファンの興味は尽きることがなかった。

 ところで、当時S.S.T.BANDとZUNTATAのライブに多大なる期待が寄せられたのには、単なるファンとしての期待にとどまらない、隠れた理由がある。
 当時のゲームミュージックが、ひいては当時のゲーム界そのものが密かに隠し持っていたテーマが、「どれだけ世間一般にアピールできるか」であったからだ。

 それは元々がPSGやFM音源といった、生楽器にはほど遠い簡素な音源で鳴らされていたことへのコンプレックスなのかもしれない。今でこそチップチューンという言葉もできるぐらい、世間一般の認識も変わってきたが、当時あの音源で鳴らされた曲は「ピコピコ」の一言で片付けられていた。この言葉には、「所詮おもちゃ」といった蔑みの視線も、多分に含まれている。
 さらには、ゲームミュージックを聴く人間は、世間的に「オタク」の一言で片付けられてしまっていた(丁度「オタク」という言葉が広く認知されるようになったのが、前年の89年)。これはこれで、じつはゲームミュージックを聴く側にも問題がないとは言えず(意外に思われるかもしれないが、当時は「ゲームミュージックしか聴かない・聴いたことがない」という人がかなり多かった)、そうした部分で世間との隔たりは間違いなくあった。
 その後の音源の発達、アレンジというジャンルへの注力も、ゲームミュージックが“ゲームミュージック”という殻から脱却するためであったし、90年代に入ってそれがより世間一般へのアピールにベクトルが向いたのも、世間的なレッテルを剥がしたいというファンの「抵抗運動」がエネルギーに加わった事による部分が大きい。
 主なファン層は10代の学生だったこともあり、自らへのレッテルを自嘲したり笑い飛ばしたりするには、まだ若かった。その分、本当に真面目にゲームミュージックを愛していたし、ゲームミュージックというものに対する偏見を取り除こうと必死だった。それが、この当時の熱狂の正体である――と、片田舎でこの熱に当てられていた自分は考えている。

 満を持して行われる「ゲームミュージックフェスティバル'90」。
 それはまさに革命前夜のように、密やかな期待感がふつふつと沸騰寸前であった。

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【16】1990――新時代の種はすでに蒔かれていた

 1990年。90年代最初の年。
 そこには単に1989年から一年経過しただけにとどまらない、ある種の期待と不安が交錯していた。60年代、70年代、80年代と、各年代がそれぞれの特徴を持つ中、果たして来たるべき90年代はどういった時代になるのか…。
 それはゲームにおいても同じ事が言えた。1978年の『スペースインベーダー』で火が付いたテレビゲームは、紆余曲折を経て成長を遂げてきた。もちろん、ゲームミュージックもまた伴走するように成長し、さらにはバンドがゲームミュージックをライブ演奏する…という、それこそ10年前には全く想像すらできなかった時代が訪れたのである。

 しかし、ゲームミュージックのアルバムに限って言うと、90年代の始まりである1990年、その前半は意外なほど静かな滑り出しだった。
 話題作となると、2月に発売されたコナミの『グラディウスIII/コナミ矩形波倶楽部』ぐらいのもの。あとは正直なところ、小粒な作品ばかりと言ってもいい。ただ、この『グラディウスIII』はオリコンで初登場26位に食い込むという、ゲームミュージック界で初の偉業を成し遂げたアルバムであるとのこと。同年6月には、オーケストラアレンジを施した『交響詩グラディウスIII』もリリースされるなど、その楽曲は高く評価された。

 そんな中、じつは90年代にゲームミュージック界を席巻することとなる二つのものが、始まりの年であるこの1990年に生まれていたのだ。

 ひとつはSNKのニューハード、NEO・GEO(ネオジオ)
 6月21日に発売されたアルバム『NEO・GEO SOUND POWER -G.S.M.SNK 2-』は、NEO・GEO初期の5タイトル『NAM-1975』『ベースボールスターズ・プロフェッショナル』『トッププレイヤーズ・ゴルフ』『麻雀狂列伝(西日本編)』『マジシャンロード』を収録。それまでのSNK基板のサウンドとは一線を画する音色に、驚いた人も多いだろう。
 もともとNEO・GEOは、発売当初「凄いゲームを、連れて帰ろう。」というキャッチコピーの元、アーケードと全く同じゲームができるハードとして話題を呼んだ。とはいえ、初期のタイトルは非常に地味で、その優れた基板性能とは裏腹になかなかヒット作には恵まれなかった。
 しかし、この後も辛抱強く作品のリリースは続き(残念ながらこの時期の他作品はほとんどCD化されていないが)、翌91年には『ASOII』『2020スーパーベースボール』、そして『餓狼伝説』でゲーマーの注目を浴びる。そして1992年の『龍虎の拳』以降、対戦格闘ゲームの新たなる雄として一躍名を上げていくこととなり、あわせてそのサウンドも評価されていくこととなる。
 そうした来るべき時代の礎は、この1990年に築かれたものと言えよう。

 ちなみに、前述のアルバムにあわせて、非売品のカセットテープ『NEO・GEO SPECIAL ARRANGE VERSION』というものも作られた。こちらはA面に『ベースボールスターズ・プロフェッショナル』、B面に『NAM-1975』のアレンジバージョンを数曲ずつ収録。とくにA面は、作曲者の所有する高価なビンテージギターによる演奏が聴きどころだった。

 そしてもうひとつは、サイトロン1500シリーズより5月21日に発売された、データイーストのCD『空牙』
 データイーストの音楽は、これまで88年5月10日に『DATA EAST GAME MUSIC』(GMOレーベル)、同年9月25日に『デコ・ヒストリー DATA EAST GAME MUSIC SCENE ONE』(DATAMレーベル)と、アルバムを2枚リリースしてきたのみ。そして翌89年6月21日に、ようやくサイトロンより『GAME SOUND DECO -G.S.M.DATA EAST 1-』を発売。『スタジアムヒーロー』や『ファイティングファンタジー』『ロボコップ』などのほか、同社のピンボール作品『トルピード・アレイ』『タイムマシーン』も収録するなど、充実した内容で評価は高かった。
 しかし、その後CDのリリースは約一年間、ぱったりと途絶えてしまう。決してゲームが出ていないわけではないのだが、1500シリーズにもなかなかラインナップとして加えられなかった。ただ、89年にデータイーストは音源を向上させた新基板を採用し、とりわけその音源を活かした『空牙』の伸びやかなギターサウンドは、一部ファンに鮮烈な印象を残していた。
 そのサウンドが、ゲーム本体のリリースより大幅に遅れてこの年CD化されたのだが、ここに思いも寄らない猛毒が仕込まれていたのである。同社サウンドチーム所属の三人がギター・ベース・ドラムを担当した、アレンジバージョン「VAPOR TRAIL」だ。
 これまでのゲームミュージックのアレンジは、シーケンサーを使った打ち込み曲や、キーボードを前面に押し出したものがほとんどだった。もちろんそれも良いものなのだが、もっと激しい方向性がどこかで望まれていたのも確か。フュージョン調が多かった従来のゲームミュージックよりも、よりにハードに、より一般的なロックに近いサウンドを待ちわびる者も多かった。
 そこに来て、この「VAPOR TRAIL」では純粋にギター・ベース・ドラムのみで構成された、非常に骨太なサウンドが聴く者に衝撃を与えた。MARO(G)、アトミック花田(B)、ングジャ三浦(当時はオレガ三浦)(Dr)と、データイーストの社員たった三人で、皆が聴きたかったサウンドをズバリ叩きつけてきたのだ。S.S.T.BANDやZUNTATAなどが注目を浴びる中、誰もがまったくノーマークだったデータイーストからこのようなサウンドが生まれることを、当時誰が予想していただろうか? 毒薬を飲まされた人は、それを味わう直前まで、それが毒薬だとは知る由もなかったハズだ。
 もちろん、この作品を境にデータイーストのサウンドは大いに注目を浴び、バンド結成への気運が一気に高まることとなる。それは後に“GAMADELIC(ゲーマデリック)”というバンドで実現するのだが、それについてはまた後日書きたい。

 この二つのものを生み出したSNKとデータイーストは、80年代に栄華を誇ったナムコ・コナミ・セガ・タイトーの4大メーカー、さらに高い独創性で人気を勝ち取ったアイレムカプコンらと比べると、どうしても評価は一段落ちてしまう。いわゆる「佳作をいくつか作る中堅メーカー」という立ち位置だ。
 しかしサイトロンは、前身のGMO時代からそうしたメーカーの音楽作品も世に送り出してきた。鋭角的な音色で根強いファンを持つ日本物産、「通好み」の一語に尽きるジャレコUPLなど、サイトロン以外ならば見向きもしないようなメーカーのゲームミュージックを、CDとして形に遺し、世に伝えてきたのだ。
 それが時を経て、新たに育ったメーカーがこの1990年という年に、新時代の扉に手を掛けた。他のレーベルのように有名メーカーを根こそぎ囲い込むのではなく、ゲームミュージックの未来を見据えて地道に種を蒔き続けてきたサイトロンが勝ち得た、“実り”と言えるだろう。

 もっとも、この1990年に限れば、それ以上の衝撃がゲームミュージック界に待ち受けていたため、当時の印象は薄かったかもしれない。
 その衝撃的な報せは、6月に発表される。その内容とは――

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【15】80年代から90年代へ―― ZUNTATA・S.S.T.包囲網

 89年はS.S.T.BANDの有料ライブ実施などで、一気にライブという場での表現の気運が高まってきた年であった。
 もちろん、同じ表現者として、他のゲームメーカーのサウンドチームの中にも野心を抱いていた者は少なくない。それがアレンジなどで発露し、さらにはバンドの結成など、活発な動きに繋がっていく。
 90年代、ゲームミュージックが大きく飛翔する前夜。そこではすでに、胎動が始まっていたのだ。

【コナミ矩形波倶楽部】
 88年から徐々にキングレコードへの移行を始め、1989年5月21日発売のアルバム『サンダークロス』にて、ついにコナミレーベルを始動させたコナミ(【7】キングレコードの進出とコナミの選択参照)。その後、同年7月21日に『コナミ・ゲーム・ミュージック・コレクションVOL.0』をリリースしたものの、本格的な活動は翌年以降となる。
 しかし、同年10月、コナミ矩形波倶楽部は未来を見すえ、あるイベントを行った。
 それは「招待制スタジオライブ」である。88年のZUNTATAのライブ風アレンジや、89年のS.S.T.BANDの初ステージ(【12】両雄割拠――ZUNTATAとS.S.T.BAND参照)と、当時の主要メーカーのうち2社がライブというキーワードのもとに活動していた当時。主要メーカーの一翼を担うコナミとしても、黙ってはいられなかったのかもしれない。あくまでもクローズドな招待制、しかもキングレコードのスタジオを用いたスタジオライブという小規模なイベントであるが、事実上“オーディエンスの前でライブを行った、S.S.T.BANDに続く2組目のバンド”ということになる。

 もともとコナミ矩形波倶楽部の中心人物である古川もとあきは、アマチュア時代にバンド「VOYAGER」を率い、“コンテスト荒らし”と称されていたほどの凄腕のギタリスト。ゲームミュージックにおいても『グラディウスII』『A-JAX』を手がけ、ゲームミュージック・ファンからも多くの支持を集めていた。
 ZUNTATAやS.S.T.BANDが思い描いていたように、彼もまたライブという形での表現を夢見ていたことは、想像に難くない。このスタジオライブは約1時間、全7曲という控えめのボリュームであったが、次なるレベルへの第一歩となったことだろう(ちなみに、コナミ矩形波倶楽部もS.S.T.BANDと同じく全員がサングラスを掛け、全員が同じシャツを着用していた)。

【アルフ ライラ ワ ライラ】
 カプコンのサウンドチーム「アルフ ライラ ワ ライラ」は、GMOレーベル時代のアルバム『カプコン・ゲーム・ミュージックVOL.2』の頃からジャケットにロゴが描かれていた(その前の『カプコン・ゲーム・ミュージックVOL.1』より名前は出ていたと言われているが、自分の不勉強ゆえ詳細はわからず)。ちなみに『~VOL.2』は、コナミ矩形波倶楽部がその名前を出した『コナミック・ゲーム・フリークス』と同時発売であり、以前の記事(【11】1987年、萌芽。)でそれを「作曲者がアーティストとしての名前を表記した最初の作品」と書いてしまったが、その実カプコンも時を同じくして、名前を出していたことになる(さらに厳密に言えば、初期三部作でナムコも作曲者名を表記しているが、それはあえてここでは取り上げない)。
 その後、サイトロンに移籍して『大魔界村 -G.S.M.CAPCOM 2-/アルフ ライラ ワ ライラ』『ストライダー飛竜 -G.S.M.CAPCOM 2-/アルフ ライラ ワ ライラ』をリリース。アルフ ライラ ワ ライラによるアレンジは、いずれも高い評価を得ている。

 しかし、ゲームミュージックとしての評価は、セガやタイトーら主要4社の後塵を拝するにとどまっていた。ゲームそのものは、当時のシステム基板「CPシステム」の高性能のもと、大ヒットを連発していたが、音楽面ではいまひとつアピールに欠けていた点は否めないだろう(そもそもBGMに徹した曲が多かったことも、その一因ではある)。また、アルフ ライラ ワ ライラはあくまでもサウンドチームであり、他と違ってあまりライブという表現方法にベクトルが向いていなかったようにも思える(ちなみに“女性4人組”ということが同チームのウリであったが、彼女らがほとんど表に出てこないこともあり、それがセールスに繋がったかどうかには疑問が残る)。

 こうした状況は、結果的に90年代に入っても続くのだが、後にある作品の大ヒットにより、その状況も大きく変わることとなる。

【ガブリンサウンド】
 まさに「知る人ぞ知る」といったサウンドチーム。ポリスターのDATAMレーベル(【9】理想郷への脱出参照)よりリリースされた、セタのアルバム『ツインイーグル&スーパーリアル麻雀PIII SETA GAME MUSIC SCENE ONE』にて、初めてその名が表に出たと思われる。
 衝撃的だったのは、その1曲目である『ツインイーグル』のアレンジ「Early Warning(Can't sleep over 3 hours)」。伸びやかなボーカル、しかも日本語詞による歌は、フュージョン志向の強かった当時には珍しいロック調の曲だった。コンピュージックの『WEC LE MANS 24』や『ダブルドラゴン』のアルバムと並び、80年代の名ボーカルアレンジ曲と言えるだろう。
 しかし、当時のセタは『スーパーリアル麻雀』シリーズで高い技術力を誇示し、知名度もあったものの、いかんせんまだ脱衣麻雀ゲームにはアンダーグラウンドの香りが強く漂っていた時代。また、『ツインイーグル』など他のゲームはヒットには恵まれず、結果的に当時のメジャーなメーカーの陰に隠れる形となってしまった。

 ガブリンサウンド自身は、その後「Opus Corp.」に加入し、家庭用ゲーム機を中心に活躍。だが、ガブリンサウンドとして「Early Warning(Can't sleep over 3 hours)」で遺していった強い自己主張の種は、確かなDNAとなって、その後のゲームミュージック界に息づいていると言ってもいいだろう。

 こうしたゲームミュージックのアレンジ、および作曲者の表への露出は、もちろん作曲者たち自身の表現欲を満たすためのものではある。だが、同時にそれはゲームメーカーにとっても、格好の宣伝素材となっていた。
 それまでゲームの人気を決める要素は、「ゲームが面白いか否か」しかなかった。それが表現力の高まりに伴って、グラフィックの美しさ、操作の遊びやすさ、そしてゲームミュージックの善し悪しまでもが、ゲームの人気に影響を及ぼす時代になってきたのだ。
 さらに、作曲者名を明らかにすること(例え本名ではなくとも)により、その作曲者自身にファンが発生するといった効果も生まれた。中にはゲームそのものの面白さよりも、「○○さんが作曲したゲーム」として知名度を上げていったゲームも少なからず存在する。当時“音ゲー”“曲ゲー”なる言葉も生まれていたのだが、これは現在の「音楽を題材にしたゲーム」のことではなく、「音や曲はいいけど、肝心のゲームが面白くないゲーム」という意味。それくらい、当時のゲームにとってゲームミュージックの占める重要性は、大きくなっていたのだ。

 そして80年代に溜まりに溜まったエネルギーは、熱いマグマとなって、噴火の時を待っていた。
 1980年、初のゲームミュージックを奏でた『ラリーX』から10年。
 ゲームミュージックの誕生からアルバム化までを駆け抜けた80年代が終わり、時代はいよいよ“さらに上”を見すえる90年代へと突入していく。

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【14】日本ファルコムの閃光

 80年代後半、ゲームミュージックのリーダーと言えばセガやタイトーなど、アーケードの大手メーカーを指すことが多かった。実際、バンド活動まで行うなど、アーケード・ゲームミュージックは空前の盛り上がりを見せていた時期でもある。
 しかし、この時期アーケードゲームとは異なる舞台で、一人気を吐いていたメーカーがある。
 それが日本ファルコムだ。同社はパソコンゲームしかリリースしていないものの、『イース』『ソーサリアン』などゲームそのもののヒットに恵まれたうえ、珠玉と呼ぶにふさわしい楽曲群を抱えていた。アーケードゲームや、ファミコンなど家庭用ゲーム機と比べると実際のプレイヤーの数は格段に落ちるが、それでも熱狂的な支持を集めていたのが日本ファルコムなのだ。

 以前の記事(【7】キングレコードの進出とコナミの選択参照)にて、キングレコードのファルコムレーベルについて少しだけ触れたが、実際の80年代におけるリリースはどんなものであったのか、振り返ってみよう。

 ●ミュージック・フロム・イース (1987/11/5)
 ●ミュージック・フロム・ソーサリアン (1988/4/21)
 ●ソーサリアン スーパーアレンジバージョン (1988/4/21)
 ●ミュージック・フロム・イースII (1988/6/21)
 ●ソーサリアン スーパーアレンジバージョンII (1988/9/21)
 ●交響曲イース (1988/11/5)
 ●ファルコムスペシャルボックス'89 (1988/12/5)
 ●ソーサリアン スーパーアレンジバージョンIII (1989/3/21)
 ●ミュージック・フロム・スタートレーダー (1989/4/21)
 ●交響曲ソーサリアン (1989/7/5)
 ●プラスミックスバージョン・フロム・イース、イースII、ソーサリアン&スタートレーダー (1989/8/21)
 ●ミュージック・フロム・イースIII ワンダラーズフロムイース (1989/10/21)
 ●ワンダラーズフロムイース スーパーアレンジバージョン (1989/10/21)
 ●ファルコムスペシャルボックス'90 (1989/12/21)

 このラインナップを見て気づいた方も多いと思うが、ひとつの作品に対するアルバム数が非常に多いのが、ファルコムレーベルの特徴とも言える。
 基本的に、ゲームは『イース』シリーズ3作と『ソーサリアン』シリーズ、『スタートレーダー』しか題材になってない。にもかかわらず、手を変え品を変えて多数のアルバムをリリースしているのだ。

 特筆すべきは、参加したミュージシャンの豪華さ。初期のアルバムのアレンジや「スーパーアレンジバージョン」などでは、「金子マリ&バックスバニー」や「SENSE OF WONDER」の活動で知られるキーボーディスト・難波弘之をアレンジャーに起用。特に『ソーサリアン スーパーアレンジバージョン』では、鳴瀬喜博(B)、そうる透(Dr)、つのだ☆ひろ(Dr)、村上“ポンタ”秀一(Dr)、Char(G)、北島健二(G)、井上大輔(Sax)…という、すさまじく豪奢な布陣を敷いてきた。
 一方、交響曲シリーズでは編曲に羽田健太郎を迎え、さらに年末発売のボックスセット『ファルコムスペシャルボックス』では、毎年豪華なゲスト(森口博子、Anthemなど)を迎えて、贅沢なアレンジを収録している。

 しかし、このような豪勢な活動の陰で、『イース』『ソーサリアン』といった日本ファルコムの代表曲を作曲した古代祐三が、88年にフリーになってしまう。
 元々古代は、パソコン雑誌「マイコンBASICマガジン」の投稿プログラムで名をはせ、その後同誌で“YK-2”のペンネームでライターとして活動。同誌を離れた後、アルバイトで日本ファルコムのゲームミュージックを作曲していた。幼少の頃より音楽教育を受けていたこともあり、前述の作品においてもアーケードゲームに大きく劣る音源ながら、ポップで華やかな楽曲群は篤い支持を集めた。当時から高い人気を誇っていた古代と、『イース』『ソーサリアン』シリーズのヒットは、切っても切れない間柄であるとしても過言ではない。

 そのため、日本ファルコムは以後、二つの壁を乗り越えるという試練を強いられることになってしまう。古代の穴を埋めるほどの音楽と、『イース』『ソーサリアン』シリーズを超えるヒット作を――。
 それが達せられたかどうかは、軽々しく評価できない。しかし、時代の趨勢も相まって、古代サウンド及び『イース』『ソーサリアン』シリーズの時代…80年代後半が、日本ファルコムの黄金期という声はやはり根強い。

 古代は日本ファルコムから離れた後、『ザ・スキーム』などで他社のゲームミュージックを手がけ始めると、1990年には自身の会社・エインシャントを設立。その後、ゲームプロデュースを手がけるなどするも、作曲者・コンポーザーとしての活動は今もって続き、現在も多数のファンを擁している。
 そして、アーケードのゲームミュージック・シーンとは交わることがないと思われていた日本ファルコムだが、90年代に入り、思わぬ形でシンクロしていくこととなる。それはまた後日述べたい。

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【13】G.S.M.1500シリーズという「新兵器」

 サイトロンレーベルにおいては、ZUNTATAとS.S.T.BANDの活躍もあり、毎月発売するアルバムの材料には事欠かない状態が続いていた。
 …それどころか、この時期は基板性能の向上により日増しにゲームの規模が膨らみ続け、それに伴ってゲーム1作あたりの曲目もどんどん増加。それにより、次第にアルバムへの収録が追いつかない事態が起きていたのだ。
 具体的には、タイトーの場合『SYVALION -G.S.M.TAITO 3-/ZUNTATA』の収録タイトルは、わずかに2作品。『サイバリオン』と『チェイスH.Q.』だけで、CD1枚が埋まってしまったのだ。同じくセガの場合、『SUPER SONIC TEAM -G.S.M.SEGA 3-/S.S.T.BAND』においては、『ターボアウトラン』『ゴールデンアックス』を中心に何とか4タイトルを詰め込んだものの、収録時間は70分をオーバー。音楽CDの最大収録時間は約74分(当時)ということを考えると、まさに限界はすぐそこまで迫っていたのだ。

 その打開策としてふたつの方策が採られた。
 ひとつは、CD2枚組という手法。1枚にアレンジバージョン、もう1枚にオリジナルバージョンを集め、なんとか収録時間を増やすことに成功した。さらに、ケースの大きさを活かし解説書もやや厚めにすることで、アルバムとしての重みを増すことにも繋がったのだ。
 2枚組アルバムの最初の作品は、1989年11月21日発売のタイトー『DARIUS II -G.S.M.TAITO 4-/ZUNTATA』。後にセガ、カプコンも続いた。しかし、この作品ですら収録タイトルは『ダライアスII』と『ナイトストライカー』の2作品にとどまり、一方でアレンジのみを集めたディスクは収録時間が30分もなく、アンバランスさは否めなかった。ちなみに、アレンジのみを集めたディスクの記録面のうち、情報が記録されていない“余り”の部分に、ZUNTATAのロゴがプリントされている。

 そしてもうひとつの方策が、同年9月21日に発動されたサイトロンの新シリーズ、“G.S.M.1500シリーズ”。それまでGMOレーベル時代から受け継いできた「複数タイトルを1枚のアルバムに収録」する形ではなく、「単独タイトルを収録したCDを安価で発売」というパターンである。
 「単独タイトルを安価で」という方針は、かつてのアポロン音楽工業「コンピュージック」レーベルの手法を思い起こさせる。しかし、その時と異なる点は「12cmCDを使う」ということ。そのため、その気になればフルアルバム並みの長時間収録も可能で、なおかつ価格は1,500円という、まさに究極的サービスが実現したのだ。
 また、このシリーズには「アルバム単位では発売しにくいメーカーやゲームのサントラ化がしやすい」というメリットもある。これは1500シリーズ初期の発売タイトルを見れば、一目瞭然だろう。

【89年9月21日発売】
  『原始島』(SNK)、『天聖龍』(ジャレコ)、『ZERO WING』(東亜プラン)、
  『レジェンド・オブ・ヒーロー・トンマ』(アイレム)、『マルサの女』(カプコン)
【89年10月21日発売】
  『ドラゴンブリード』(アイレム)、『鮫!鮫!鮫!』(東亜プラン)、
  『ドンドコドン』(タイトー)
【89年11月21日発売】
  『テトリミックス』(セガ)、『クラックダウン・ゲイングランド』(セガ)、
  『ダートフォックス』(ナムコ)

 当時、中堅メーカーはリリースするゲームのタイトルの少なさ、また知名度の低さから、ある程度のタイトルが揃わないことにはアルバム化は困難な状況にあった。逆に、大手メーカーはリリースするゲームのタイトル数が多すぎて、アルバムに曲を収録しきれない作品が多数出てしまう。それが1500シリーズにより、中堅メーカーも大手メーカーも両方とも救われることとなる。
 また、『マルサの女』のように家庭用ゲーム機のサントラをリリースしたり(収録曲は全てアレンジされているが)、『クラックダウン・ゲイングランド』のように複数タイトルを1枚にまとめ、なおかつ1,500円で発売するといったようなケースもあった。ちなみに収録時間はそれぞれ20~30分程度で、2タイトルを網羅した『クラックダウン・ゲイングランド』でさえ、収録時間は33分に満たないのだ。
 数多くのメーカーを抱えるサイトロンによって、1500シリーズはまさに天啓であり新兵器。以降、このシリーズは小回りの良さを活かし、大いに活性化していくこととなる。

 ところが、じつはこれと全く同じ企画が、全く同じ日に、別のレコード会社にてスタートしていた。
 それはナムコ作品でお馴染みの、ビクター音楽産業(当時)。89年9月21日に、“ナムコ・ゲーム・サウンド・エキスプレス(以下NGSEに省略)シリーズとして、第1作目『ワルキューレの伝説』が発売されたのだ。
 このNGSEシリーズは、ゲーム1タイトルに絞り、12cmCDに収録、価格は1,500円…と、特徴は1500シリーズと寸分違わない。ただ、1500シリーズが毎月複数枚の作品をリリースしたのに対し、NGSEシリーズはリリース間隔が短くても3ヵ月に1枚、長いと半年以上経っても次のタイトルが発売されないこともあった。ビクターがゲームミュージックのサントラをナムコ一社のみに絞っていたことから、NGSEシリーズはアルバム『ビデオ・ゲーム・グラフィティ』シリーズの間を埋めるために生み出されたものと思われる。コンセプト上は、じつは1500シリーズとNGSEシリーズは正反対なのだ。

 いずれにせよ、この“価格破壊”とも言える両シリーズは、ゲームミュージック界を席巻することとなった。
 もともと、ゲーム単一タイトルでのアルバム制作というのは、珍しい話ではない。だが、それを当時のゲームミュージック界におけるメインストリームのサイトロンらが行い、かつ1,500円という低価格を打ち出したことが、まさしくエポックであった。
 この後、時代の潮流としては「アルバム1枚に複数ゲームの音楽を収録」というスタイルは廃れていき、CD1枚に単一タイトルのゲームミュージックという流れに傾いていくことになる。また、1500シリーズのおかげで晴れて表舞台に出られたメーカーもいくつか存在するが、それは別の機会に述べたい。

 なお、サイトロンとビクターの両陣営には、意外な部分で繋がりがある。
 そのひとつが、1990年3月21日にサイトロンから発売されたベストアルバム『GAME MUSIC BEST OF THE YEAR 1989』だ。
 この作品は、アーケードゲーム雑誌「ゲーメスト」で年に一度行われる「ゲーメスト大賞」、その1989年のVGM部門で上位に入賞した10タイトルの曲を、オムニバス形式で収録したアルバム。ここに、本来ならばビクターよりサントラが発売済みだったため収録が不可能と思われていた、ナムコの2作品『ワルキューレの伝説』『フェリオス』が収録されたのだ。同じく、キングレコードよりサントラが発売されていたコナミ作品が、結局収録されなかったことを考えると、このビクターの英断は賞賛に値する。
 一時期はナムコ作品を交互にリリースするなど(【8】三つ巴のナムコ争奪戦参照)、熾烈な争いを繰り広げてきた両陣営ではあるが、深い根底部分ではゲームミュージック界の発展のため、しっかりと手を取り合っていたのかもしれない。それを考えると、まったく同日に同じ企画(1500シリーズとNGSEシリーズ)がスタートするというのも、じつは示し合わせた結果だったのだろうか…興味は尽きない。

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