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【20】歌姫は静かに降臨する

 あなたは、たった1曲の音楽に惹かれたことがあるだろうか。
 そのたった1曲のためだけに、CDを探し回ったことがあるだろうか。
 その1曲から広がった新たなる世界に、感動したことはあるだろうか。

 80年代後半から盛り上がってきたゲームミュージックのアレンジは、1990年に入り“ゲームミュージックフェスティバル'90”の開催で、ひとつの到達点を見た。そして、それを足がかりに更なる高みを目指し、S.S.T.BANDやZUNTATAに追いつき追い越すべく、ゲームミュージックの作曲者たちは思い思いに牙を研ぎ始めた。
 それが翌年以降、多彩なゲームミュージック・バンドのデビューという形で結実し始め、またバンドに依らずとも表現手段も多彩になったことで、さらにゲームミュージック界の盛り上がりは増していくことになるのだ。
 そんな中、じつはこの90年末、とある歌姫が静かに我々の前に姿を現していた。この歌姫もまた、後にゲームミュージック界に大きな足跡を残すこととなる。しかし、この時はまだその名を知るものは、ほとんどいなかった。

 1990年12月15日、歌姫は意外なところに降臨した。
 サイトロンより1500シリーズとしてリリースされた、データイーストの作品『ダークシール』
 ファンタジーを意識したこのゲームは、しかし俯瞰視点という特殊さや操作の難しさもあり、あまり大ヒットとはいかなかった。音楽の方は、クラシカルかつおどろおどろしい曲調が、一部では話題となっていた。
 そして、このCD『ダークシール』に収録された2曲のアレンジ曲が、やがて大きな話題を呼ぶこととなる。
 アレンジを手がけたのは、葛生千夏(くずうちなつ)。さらに英詞とボーカルも担当している。

 葛生千夏は、もともと作曲家・ボーカリスト・コンポーザーとして活動しており、CMソングなどを手がけてきた。筆者個人の思い入れで言うと、最初の出会いは80年代に流れたリョービの企業イメージCMの楽曲「Nature Rewards Me」。当時フジテレビ系の番組「プロ野球ニュース」で、毎日のようにこの歌を聴いており、その不思議な音の響きがずっと心のどこかに引っかかったままになっていたのだ。
 その彼女が、縁あって『ダークシール』のアレンジ曲「The Sword of Delight」「Overcome Your Despairs」の2曲を手がけた。
 どちらもそもそも原曲があって、それをアレンジしたものであり、そのため普段の彼女の作風とはひと味違っている(おかげで筆者は件のCM曲の人だと気がつかなかった)。だが、凛とした歌声、そして揺るぎないメッセージを持った歌詞に、心を捉えられてしまった人は多い。前向きなメッセージをファンタジックな英詞に秘め、朗々と歌い上げる。とりわけ「Overcome Your Despairs」の「ひとりぼっちなら ぼくなんてどうかな」といった歌詞に、短い曲ながらも切々たるメッセージが感じられた。現在も葛生千夏ファンという人の中には、このCDが切っ掛けだったという者も多い。

 この後、彼女のゲームミュージック界における活躍は、さらに活発になる。
 翌91年には、パソコン用ゲーム『ポピュラス』のアレンジアルバムとして、サイトロンより発売された『SOUND WORLD OF POPULOUS -G.S.M.IMAGINEER 1-』に、ボーカル曲「Populous Main Theme」を提供。こちらは『ダークシール』とは一変し、神話のような歌詞と重々しいアレンジの“葛生ワールド”が展開された。
 そして92年、『ダークシール』の続編『ダークシールII』において、すでにデビューしていたデータイーストのゲームミュージック・バンド“GAMADELIC”と共演という形で、アレンジ曲「THE GATE OF DOOM」を発表する。吟遊詩人の酒場での歌唱を思わせるような幻想的な仕上がりは、傑作の呼び声も高い。
 その一方で、インディーズながらオリジナルアルバムも発売。91年『THE CITY IN THE SEA』、92年『THE LADY OF SHALOTT』は、ともに彼女の世界を表現して有り余る作品と言えよう(前者には「Nature Rewards Me」、後者には「Populous Main Theme」を収録)。
 これまた筆者個人の話なのだが、インターネットなんてものとはとても縁がなかった当時、この2枚のCDを手に入れるのに非常に苦労した記憶がある。近所のインディーズにも強いCDショップの店長ですら、葛生千夏という名前を知らない。数少ない手がかりからようやく入荷してもらい、そのCDを手に取ったときの感激。さらにそこから溢れ出る音に圧倒されたのも、10年以上前の事ながら鮮明に覚えている。

 そして94年、ゲームソフト『アンジェリーク』の作曲を担当する。以後同シリーズとは深い関わりを持つようになり、シリーズのゲームミュージックのほかドラマCDの劇伴なども手がけていく。また、同年発売されたスーパーファミコン用ソフト『ファイナルファンタジーVI』では、テレビCM曲「FINAL FANTASY」を手がけ、大きな注目を浴びた。
 その後も多方面に活躍を続け、歌手活動やアニメーションのサウンドなどを手がけるなど、その才能を存分に発揮。1999年には、ゲームミュージック作曲家のオムニバスアルバムである『TEN PLANTS 2』に参加し、ひさびさに“ゲームミュージック作曲家”としての楽曲も提供した。

 しかし、あるときを境にぷっつりとその名は途絶えてしまう。
 噂によると、舞踏に表現の場を求めたとか、イギリスに留学したなど、いずれにせよ音楽活動からは遠ざかってしまったとのこと。だが、現在も彼女の名を記憶に留める人は多く、ミクシィにある「葛生千夏」コミュニティも参加人数は100人を超えている。
 ゲームミュージックのアレンジを端緒に、一人のアーティストに興味を持ち、それを追うことで知る事実。葛生千夏という縦糸と、ゲームミュージックという横糸が織りなす模様は、糸が増えれば増えるほどより複雑に、味わい深くなっていく。
 そんな楽しみもまた、ゲームミュージックならではなのかもしれない。

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【19】我思う、故にアレンジあり

 GAME MUSIC FESTIVAL'90は大盛況のうちに幕を閉じた。

 1987年に“萌芽”して以来(【11】1987年、萌芽。参照)、それまでアレンジバージョンにあったイメージは、90年代に至ってずいぶんと変化してきた。
 それまでアレンジと言えば、PSGやFM音源といった独特の音色によるゲームミュージックを、外部のアレンジャーがシンセサイザーなどを用いて編曲するものだった。これは極論すると、一聴すると貧弱な曲を、一般人にも聴けるレベルまで高める作業である。そこにあるのは編曲者の意志、もっと言えばレコード会社側の意志であって、肝心の作曲者の意志がそこに介在するかどうかは怪しい。
 しかし、実際のゲームに使われる音源が進歩したことで、そうしたアレンジの存在意義は徐々に消え失せていった。その代わり、外部の人間ではなく作曲者自身が昇華するという意識改革により、本当の意味でそのゲームミュージックにふさわしいアレンジが成されるようになってきたのだ。
 それは大きなメーカーはもちろん、それ以外のメーカーにも徐々に波及し、他社でもそのような試みが行われるようになってきた。

【カネコ】
 金子製作所が手がけ、1990年に発売された横スクロールシューティングゲーム、『エアバスター』
 テンポが良くスマートなゲーム展開もさることながら、そのゲームミュージックもまた高い評価を受けた。とりわけ1面の曲「SEASIDE FRONT」は、さわやかなメロディラインがゲーム背景の青空とよくマッチし、出色の出来を誇っていた。
 そのCDがサイトロン1500シリーズよりリリースされ、それに「SEASIDE FRONT」のアレンジバージョンも収録されることとなった。
 そこで、そのアレンジを作曲者の渡辺達也自らが手がけ、さらに生ドラムを導入するという意外なアプローチが成された。BPM170前後というハイテンポな曲を叩いたのは、プロドラマーの友田真吾(現在は「友田真五」または「ともだしんご」名義)。数多くの有名ミュージシャンと共演した、名うてのドラマーだ。
 これがまさに完璧とも言えるアレンジを生み出した。爽やかさだけでなく生ドラムならではのグルーヴも加わり、非常に質の良い仕上がりとなった。わずか3分半という短さも、逆に余分な贅肉がなく、かえって後味の残らない爽やかさが強調される効果を生み出した。

 惜しむらくは、これに続くヒット作をカネコが生み出せなかったことだろう。
 その後は『富士山バスター』『大江戸ファイト』という、色物感の強い対戦格闘ゲームが有名になるばかりで、『エアバスター』で得た評価を再び甦らせることはできなかった。家庭用ゲーム機では同年『スーパースターソルジャー』というヒット作も生み出すものの、その後は再び泡沫に消えていった感がある。

【ジャレコ】
 もともといくつかのゲームでは、ゲームミュージックが評価されていたジャレコ。その中には、厳密にはジャレコではなくNMKが開発したタイトルも多く含まれているが、ジャレコ開発作品にももちろん佳曲は多数存在していた。
 そんな中、1988年のアルバム『GAME SOUND JALECO -G.S.M.JALECO 1-』の発売により、ジャレコの楽曲が認知され、さらにサイトロン1500シリーズで『天聖龍』『プラスアルファ』などがリリースされ、好評を得ていた。

 そして90年、アクションゲーム『妖精物語ロッドランド』のCDを1500シリーズよりリリース。
 もともとのゲームは『フェアリーランドストーリー』『バブルボブル』などを想起させる、固定画面のアクション。かわいいグラフィックが特徴で、後にファミコンなどにも移植されている。だが、それ以上に楽曲、さらに言うと「音色」が印象的なゲームだった。
 作曲者は多和田吏。当時はジャレコ所属のサウンド開発者で、ファミコン用ソフト『ドルイド』『ラジカルボンバー地雷くん』、アーケード『キックオフ』『武田信玄』などを経て、前述の『プラスアルファ』が高い評価を受ける。とくにアーケード作品では、一貫して“音色”に強いこだわりが見られ、『キックオフ』のバックに流れる歓声、『プラスアルファ』のティンパニなどに強い印象を残した。他社はギターやベース、ドラムといったオーソドックスな楽器の再現に注力していたのに対し、ジャレコのこの選択は意外ともいえ、また個性とも言える。この『ロッドランド』においても、『プラスアルファ』の路線を受け継ぐかのような柔らかい音色が、ゲームの雰囲気によくマッチし、暖かな印象を残した。

 そして、それ以上にこの作品を印象深いものにしたのが、多和田自身によるアレンジ「交響詩『こどもの国』」。ゲームミュージックを組曲風に組み立て、なんと10分にも及ぶ大作アレンジに仕上げ、CDに収録した。もちろん、これ以前にも『ドラゴンクエスト』をはじめとして、組曲風のアレンジは多数存在する。しかし、作曲者自らが編曲を手がけ、打ち込んだ作品は珍しい。
 そして「こどもの国」というタイトルに込めたメッセージ。真正直な祈りは、今なら「青い」と鼻で笑われるかもしれないが、ストレートな想いはやはり心にストレートに響く。ゲームはお世辞にも大ヒットしたとは言えないので、このアレンジ曲を耳にした人もさほど多くないかもしれないが、それでもこの曲を聴いた人には、確実に惹かれるものがあったはずだ。

 多和田はこの後ジャレコから独立し、『ドラゴンクエスト』シリーズや『ポケットモンスター』シリーズの作曲・アレンジにも名を連ねることとなる。その片鱗は、すでにジャレコ在籍時からうかがえたと言ってもいいだろう。

【コナミ矩形波倶楽部】
 90年前半に『グラディウスIII/コナミ矩形波倶楽部』をリリースしたコナミ矩形波倶楽部。後半に入って『パロディウスだ!/コナミ矩形波倶楽部』『コナミ・ゲーム・ミュージック・コレクションVOL.2』を発売。『パロディウスだ!』はクラシックを大胆にアレンジし、ゲームミュージックに仕立てた珍しい作品で(クラシックのフレーズが使われたことは幾度もあるが、この時期の音源で曲としてきちんと形成されたアレンジは意外にもなかった)、ファンには高い評価を得た。
 また、この頃からコナミレーベルでは、注目タイトルは単体で、それほど注目されないタイトルは何作かをまとめて、それぞれアルバム化する方針を採るようになった。タイトル単体の場合だと、特に価格面でサイトロン1500シリーズやナムコ・ゲーム・ミュージック・エクスプレスシリーズと比較されてしまうが、フルアルバム価格(2,800円程度)にふさわしいタイトルと収録内容(ライナーも含めた)の充実ぶりから、一定の支持は得ていたようである。

 そして11月21日、ついにコナミ矩形波倶楽部は大きな行動を起こす。
 アルバム『矩形波倶楽部』のリリース。これはコナミ矩形波倶楽部のオリジナルアルバムなのだ。ゲームミュージック・バンドの両雄である、S.S.T.BANDもZUNTATAも、いわゆるオリジナルアルバムというものは作成してこなかった。あくまで既存のゲームミュージックのサウンドトラックに、アレンジバージョンを収録するという形式でしかない(S.S.T.BANDのみ、ベストアルバムという形でのリリースはあるが)。しかし、このアルバム『矩形波倶楽部』は、ゲームミュージックのサントラではない、純然たるバンド演奏で占められた作品なのだ。
 しかも、プロデューサーに迎えたのは、T-SQUAREの安藤まさひろ。当時、日本のフュージョンバンドとして人気・実力共に二分していたのが、安藤まさひろ率いるT-SQUAREと、野呂一生率いるCASIOPEA。野呂はすでにS.S.T.BAND楽曲の編曲を手がけており、つまりコナミ矩形波倶楽部はS.S.T.BANDに真っ向から挑戦状を叩きつけた格好となるのだ。
 とはいえ、このアルバム収録曲のうち、純然たるオリジナル曲は3曲。残り7曲は、既存のゲームミュージックのアレンジバージョンであった。つまり、コナミ矩形波倶楽部はこのアルバムでは「ゲームミュージック・バンド」の粋から爪先だけ出した格好でしかない。本当の意味でゲームミュージックという枠から飛び出すには、まだ届かない内容だったと言えよう。

 このように、1990年はS.S.T.BANDとZUNTATAによるライブが好評を受けた一方で、他メーカーも様々な形で独自のアレンジを模索していたのだ。
 今回挙げたように、90年に何らかの形を示したバンドやメーカーもあるが、この年に水面下で準備を進め、翌年からいよいよ形を見せ始めるプロジェクトも、いくつも存在する。
 翌91年より、いよいよゲームミュージックは大輪の花を咲かせることとなるのだ。

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【18】真夏の一夜の夢

 1990年8月25日。
 東京、日本青年館。

 GAME MUSIC FESTIVAL'90。
 ついに、この日がやってきた。

 S.S.TBANDひさびさの、そして新ベーシスト・TURBO君加入後初のライブ。
 ZUNTATA、記念すべき最初のライブ。
 バンドとして脂が乗りつつある時期のS.S.T.BANDと、全くの未知なるパフォーマー・ZUNTATA。その夢の競演が、いよいよ幕を開けるというのだ。
 開催日が夏休み期間中(実際には地方では夏休みが明けた地域もあるが)および土曜日ということもあり、最もコアなファン層である10代の学生にとっては、願ってもないチャンス。この時、自分は行けなかったのだが、恐らく関東近郊のみならず全国からゲームミュージック・ファンが集ったことだろう。

 日も暮れかけた頃、その幕は上がった。

【ZUNTATA Act】
 ライブが幕を開けたと同時に、重々しい男たちの声が朗々と響く。
 そして現れた少年の、一言。
  「ボクの名は、夢男!」
 なんと、出てきたのはZUNTATAではなかった。ステージは劇団(PPP'S WORKSHOP)による演劇からスタートする。その内容は、新たなる神となることを運命づけられた少年・夢男の物語。
 謎の男から手渡された“予言の書”。夢男がそれを開いてみても、何も書かれていない。しかし、耳を澄ませてみると、人々の声が聞こえるという――
 そこに流れ始めたのは、「A.D.1993」。『ニンジャウォーリアーズ』のデモで流れる曲が、重苦しく響く。
 そして満を持して、ZUNTATAが登場。聴き慣れた「OLGA BREEZE」の快活なメロディに、オーディエンスは一気にヒートアップした。
 バンドとしてのZUNTATAは、なんとホーンセクションまで入った13人編成。全員がおそろいの銀色のジャケットに身を包んでいる。
 もちろん、キーボードのOGR、ギターのMar.など、ZUNTATAを代表する作曲者達が目の前で楽器を弾いている。自らの手で、何度となく聴いたあの曲を演奏している。長い間待たされて、ついに実現した瞬間。まさに夢が現在進行形で叶っている至福の時間だ。

 ZUNTATAのステージは、劇団の演劇を合間に挟みつつ、代表曲を演奏するという形。
 しかし、単なるライブにとどまらない点として、それぞれの楽曲にテーマを持たせている点が挙げられる。“淘汰”の「Ja Fraw」、“平和”の「FREE THE LOVE」、“滅亡”の「CHAOS ~Main Theme~」など、ひとつの物語に沿って演劇と演奏が進んでいく。さらにはストーリーの展開のために、ゲームミュージックのアレンジではない「MECHANIQUE CIVILLISATION」という完全オリジナルの曲まで書き下ろしているのだ。
 代表曲を並べたライブのシーケンスとしても優れ、同時にひとつのストーリーを追った劇伴としても優れた構成は、ZUNTATAのコンセプチュアルな側面を存分に発揮した高い完成度を誇っていた。
 また「FREE THE LOVE」では、CDでもボーカルを務めたSUZANNE K.が実際にステージで歌い、「CHAOS~Main Theme~」では大本営発表のアナウンスを混ぜるという、まさにカオティックなアレンジを施す。
 最後はストーリーの結末として、神になるという運命に背を向けた夢男に“革命”というテーマを持たせ、さらに2年前のアルバムで“来たるべき未来”のライブに夢を託した楽曲としてファンには思い出深い、「DADDY MULK」を選ぶ。記念すべきファーストライブの締めくくりとして、また物語の結末として、これほど完璧な答えはないだろう。津軽三味線ソロには実際に三味線奏者がステージに登場、これもまた仮想ライブバージョンを再現したものだ。

 駆け抜けるように過ぎていった時間。
 「DADDY MULK」が終わったあと、2年前の仮想ライブと同じように場内を包み込んだ「ZUNTA」コールが、ファンのみならずZUNTATAにとっても夢心地に感じられたに違いない。
 1988年に思い描いていた夢が、今ここに叶ったのだ。

【S.S.T.BAND Act】
 高いコンセプト・ライブを見せつけたZUNTATAに対し、S.S.T.BANDが用意する答えはただひとつ。
 純粋に、バンドとしてクオリティの高いライブを行う。
 そして、それはファンもまた望んでいたことである。各種イベントでS.S.T.BANDがライブを行うたび、当時サイトロンにはライブアルバムの希望が寄せられていたとのこと。ファンが渇望していたS.S.T.BANDのライブが、ついに日本青年館という大会場で、多数のオーディエンスに向けて解放されるのだ。

 ミリタリー風の黒いコスチュームに身を包み、もはやお馴染みとなったサングラス姿でS.S.T.BANDは登場。ライブは「AFTER BURNER MEDLEY」で幕を開ける。
 事前に合宿までしたこともあり(その詳細はライブアルバムに詳しい)、さすがにそのステージングの完成度は高い。バンドとしての技術やまとまり、放射するエネルギーの熱では、ZUNTATAをも凌ぐものがある。
 前月に発売されたばかりの4thアルバム『HYPER DRIVE』より、「AIR BATTLE」や「新たなる旅へ」を演奏したかと思えば、バンド形式では初演奏の曲が並んだ「GALAXY FORCE MEDLEY」、さらにライブはおろかアレンジ自体が初となる「LAST WAVE」(『アウトラン』のネームエントリー曲)など、代表曲を惜しげもなく弾きまくる。まさにS.S.T.BANDとしての集大成と呼ぶべき、新旧取り混ぜたセットリストとなった。

 なかでも、注目すべきはそのフロントマン。
 ステージのど真ん中に立っていたのは、リーダーのMickeyでも、華のあるギタリスト・GALAXYでもない。新加入したベーシスト、TURBO君その人だった。1曲目からベースソロをかますなど、そのスラップベースで観客にビートを刻み込む。
 そして、あの有名なアジテーション。
  「ターボくんのベースをもっと聴きたいかぁー!!」
 ベースを手に、観客を煽る。これこそが、今回フロントマンとしてステージ中央に立つこととなった理由なのではないだろうか。
 前回(【17】GMF'90という名の“革命”前夜参照)書いたように、ゲームミュージックのファンにはゲームミュージック以外の音楽を聴いたこともなく、コンサートにも行ったこともないという人が多かった。それもあって、いわゆるライブでの立ち振る舞いに慣れていない者が多く、ともすれば“大人しい”“行儀のいい”観客でしかなくなってしまう。それを打ち破るかのようなTURBO君のアジテーションは、ある意味カルチャーショックであり、いわば“洗礼”であった。
 同時に、それはバンドにとっても新たなる刺激となったに違いない。ライブCD(後述)においても、ライナーノーツに「彼のプレイ、人間性が大きくバンドの活性化につながっていることは言うまでもない」とまで、他メンバー(恐らくMickey)に言わしめているほどである。邪推でしかないが、それまでゲームミュージックの作曲家とスタジオミュージシャンによるプロジェクトに過ぎなかったS.S.T.BANDが、彼の加入により本当の意味でバンドとして結束を固めたのかもしれない。

 最後は1曲目のメドレーには入っていなかった「AFTER BURNER」、そしてアンコールにて「POWER DRIFT MEDLEY」を演奏し、ライブは終了。ZUNTATAの時と同じく、「S.S.T.」コールが沸き上がり、場内を包み込む。
 真夏の一夜の夢は、一時も留まることのないまま、あっという間に過ぎ去っていった。
 跡に残るほのかな熱気と、強烈に刻み込まれた記憶だけが、その夢が本当だったことを物語る証だった。

【後日】
 その後のサイトロンの動きは素早かった。
 初のライブアルバムとなる『S.S.T.BAND LIVE -G.S.M.SEGA-/S.S.T.BAND』を10月21日に、『ZUNTATA LIVE -G.S.M.TAITO-/ZUNTATA』を11月21日に、それぞれ発売。さらに、ライブビデオ『GAME MUSIC FESTIVAL'90』『S.S.T.BAND LIVE』を11月21日に同時発売した。ビデオは前者がZUNTATAとS.S.T.BANDの両方の映像を収録、後者は文字通りS.S.T.BANDのステージのみで構成されている。
 地方在住などで行くことのできなかった多数のファンに、これらは大変な喜びを持って迎えられた。それがさらに深い渇望を呼び起こし、更なるライブ展開を望む声に繋がったことは、想像に難くない。また、「GAME MUSIC FESTIVAL'90」ということは「'91」もあるはずだ、という強い希望が、さらにゲームミュージック界の勢いを押し広げていくこととなる。

 1990年8月25日。
 その日は、ゲームミュージックにとって大きな里程標が打ち立てられた日である。

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