カテゴリー「ゲームミュージック」の20件の記事

【20】歌姫は静かに降臨する

 あなたは、たった1曲の音楽に惹かれたことがあるだろうか。
 そのたった1曲のためだけに、CDを探し回ったことがあるだろうか。
 その1曲から広がった新たなる世界に、感動したことはあるだろうか。

 80年代後半から盛り上がってきたゲームミュージックのアレンジは、1990年に入り“ゲームミュージックフェスティバル'90”の開催で、ひとつの到達点を見た。そして、それを足がかりに更なる高みを目指し、S.S.T.BANDやZUNTATAに追いつき追い越すべく、ゲームミュージックの作曲者たちは思い思いに牙を研ぎ始めた。
 それが翌年以降、多彩なゲームミュージック・バンドのデビューという形で結実し始め、またバンドに依らずとも表現手段も多彩になったことで、さらにゲームミュージック界の盛り上がりは増していくことになるのだ。
 そんな中、じつはこの90年末、とある歌姫が静かに我々の前に姿を現していた。この歌姫もまた、後にゲームミュージック界に大きな足跡を残すこととなる。しかし、この時はまだその名を知るものは、ほとんどいなかった。

 1990年12月15日、歌姫は意外なところに降臨した。
 サイトロンより1500シリーズとしてリリースされた、データイーストの作品『ダークシール』
 ファンタジーを意識したこのゲームは、しかし俯瞰視点という特殊さや操作の難しさもあり、あまり大ヒットとはいかなかった。音楽の方は、クラシカルかつおどろおどろしい曲調が、一部では話題となっていた。
 そして、このCD『ダークシール』に収録された2曲のアレンジ曲が、やがて大きな話題を呼ぶこととなる。
 アレンジを手がけたのは、葛生千夏(くずうちなつ)。さらに英詞とボーカルも担当している。

 葛生千夏は、もともと作曲家・ボーカリスト・コンポーザーとして活動しており、CMソングなどを手がけてきた。筆者個人の思い入れで言うと、最初の出会いは80年代に流れたリョービの企業イメージCMの楽曲「Nature Rewards Me」。当時フジテレビ系の番組「プロ野球ニュース」で、毎日のようにこの歌を聴いており、その不思議な音の響きがずっと心のどこかに引っかかったままになっていたのだ。
 その彼女が、縁あって『ダークシール』のアレンジ曲「The Sword of Delight」「Overcome Your Despairs」の2曲を手がけた。
 どちらもそもそも原曲があって、それをアレンジしたものであり、そのため普段の彼女の作風とはひと味違っている(おかげで筆者は件のCM曲の人だと気がつかなかった)。だが、凛とした歌声、そして揺るぎないメッセージを持った歌詞に、心を捉えられてしまった人は多い。前向きなメッセージをファンタジックな英詞に秘め、朗々と歌い上げる。とりわけ「Overcome Your Despairs」の「ひとりぼっちなら ぼくなんてどうかな」といった歌詞に、短い曲ながらも切々たるメッセージが感じられた。現在も葛生千夏ファンという人の中には、このCDが切っ掛けだったという者も多い。

 この後、彼女のゲームミュージック界における活躍は、さらに活発になる。
 翌91年には、パソコン用ゲーム『ポピュラス』のアレンジアルバムとして、サイトロンより発売された『SOUND WORLD OF POPULOUS -G.S.M.IMAGINEER 1-』に、ボーカル曲「Populous Main Theme」を提供。こちらは『ダークシール』とは一変し、神話のような歌詞と重々しいアレンジの“葛生ワールド”が展開された。
 そして92年、『ダークシール』の続編『ダークシールII』において、すでにデビューしていたデータイーストのゲームミュージック・バンド“GAMADELIC”と共演という形で、アレンジ曲「THE GATE OF DOOM」を発表する。吟遊詩人の酒場での歌唱を思わせるような幻想的な仕上がりは、傑作の呼び声も高い。
 その一方で、インディーズながらオリジナルアルバムも発売。91年『THE CITY IN THE SEA』、92年『THE LADY OF SHALOTT』は、ともに彼女の世界を表現して有り余る作品と言えよう(前者には「Nature Rewards Me」、後者には「Populous Main Theme」を収録)。
 これまた筆者個人の話なのだが、インターネットなんてものとはとても縁がなかった当時、この2枚のCDを手に入れるのに非常に苦労した記憶がある。近所のインディーズにも強いCDショップの店長ですら、葛生千夏という名前を知らない。数少ない手がかりからようやく入荷してもらい、そのCDを手に取ったときの感激。さらにそこから溢れ出る音に圧倒されたのも、10年以上前の事ながら鮮明に覚えている。

 そして94年、ゲームソフト『アンジェリーク』の作曲を担当する。以後同シリーズとは深い関わりを持つようになり、シリーズのゲームミュージックのほかドラマCDの劇伴なども手がけていく。また、同年発売されたスーパーファミコン用ソフト『ファイナルファンタジーVI』では、テレビCM曲「FINAL FANTASY」を手がけ、大きな注目を浴びた。
 その後も多方面に活躍を続け、歌手活動やアニメーションのサウンドなどを手がけるなど、その才能を存分に発揮。1999年には、ゲームミュージック作曲家のオムニバスアルバムである『TEN PLANTS 2』に参加し、ひさびさに“ゲームミュージック作曲家”としての楽曲も提供した。

 しかし、あるときを境にぷっつりとその名は途絶えてしまう。
 噂によると、舞踏に表現の場を求めたとか、イギリスに留学したなど、いずれにせよ音楽活動からは遠ざかってしまったとのこと。だが、現在も彼女の名を記憶に留める人は多く、ミクシィにある「葛生千夏」コミュニティも参加人数は100人を超えている。
 ゲームミュージックのアレンジを端緒に、一人のアーティストに興味を持ち、それを追うことで知る事実。葛生千夏という縦糸と、ゲームミュージックという横糸が織りなす模様は、糸が増えれば増えるほどより複雑に、味わい深くなっていく。
 そんな楽しみもまた、ゲームミュージックならではなのかもしれない。

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【19】我思う、故にアレンジあり

 GAME MUSIC FESTIVAL'90は大盛況のうちに幕を閉じた。

 1987年に“萌芽”して以来(【11】1987年、萌芽。参照)、それまでアレンジバージョンにあったイメージは、90年代に至ってずいぶんと変化してきた。
 それまでアレンジと言えば、PSGやFM音源といった独特の音色によるゲームミュージックを、外部のアレンジャーがシンセサイザーなどを用いて編曲するものだった。これは極論すると、一聴すると貧弱な曲を、一般人にも聴けるレベルまで高める作業である。そこにあるのは編曲者の意志、もっと言えばレコード会社側の意志であって、肝心の作曲者の意志がそこに介在するかどうかは怪しい。
 しかし、実際のゲームに使われる音源が進歩したことで、そうしたアレンジの存在意義は徐々に消え失せていった。その代わり、外部の人間ではなく作曲者自身が昇華するという意識改革により、本当の意味でそのゲームミュージックにふさわしいアレンジが成されるようになってきたのだ。
 それは大きなメーカーはもちろん、それ以外のメーカーにも徐々に波及し、他社でもそのような試みが行われるようになってきた。

【カネコ】
 金子製作所が手がけ、1990年に発売された横スクロールシューティングゲーム、『エアバスター』
 テンポが良くスマートなゲーム展開もさることながら、そのゲームミュージックもまた高い評価を受けた。とりわけ1面の曲「SEASIDE FRONT」は、さわやかなメロディラインがゲーム背景の青空とよくマッチし、出色の出来を誇っていた。
 そのCDがサイトロン1500シリーズよりリリースされ、それに「SEASIDE FRONT」のアレンジバージョンも収録されることとなった。
 そこで、そのアレンジを作曲者の渡辺達也自らが手がけ、さらに生ドラムを導入するという意外なアプローチが成された。BPM170前後というハイテンポな曲を叩いたのは、プロドラマーの友田真吾(現在は「友田真五」または「ともだしんご」名義)。数多くの有名ミュージシャンと共演した、名うてのドラマーだ。
 これがまさに完璧とも言えるアレンジを生み出した。爽やかさだけでなく生ドラムならではのグルーヴも加わり、非常に質の良い仕上がりとなった。わずか3分半という短さも、逆に余分な贅肉がなく、かえって後味の残らない爽やかさが強調される効果を生み出した。

 惜しむらくは、これに続くヒット作をカネコが生み出せなかったことだろう。
 その後は『富士山バスター』『大江戸ファイト』という、色物感の強い対戦格闘ゲームが有名になるばかりで、『エアバスター』で得た評価を再び甦らせることはできなかった。家庭用ゲーム機では同年『スーパースターソルジャー』というヒット作も生み出すものの、その後は再び泡沫に消えていった感がある。

【ジャレコ】
 もともといくつかのゲームでは、ゲームミュージックが評価されていたジャレコ。その中には、厳密にはジャレコではなくNMKが開発したタイトルも多く含まれているが、ジャレコ開発作品にももちろん佳曲は多数存在していた。
 そんな中、1988年のアルバム『GAME SOUND JALECO -G.S.M.JALECO 1-』の発売により、ジャレコの楽曲が認知され、さらにサイトロン1500シリーズで『天聖龍』『プラスアルファ』などがリリースされ、好評を得ていた。

 そして90年、アクションゲーム『妖精物語ロッドランド』のCDを1500シリーズよりリリース。
 もともとのゲームは『フェアリーランドストーリー』『バブルボブル』などを想起させる、固定画面のアクション。かわいいグラフィックが特徴で、後にファミコンなどにも移植されている。だが、それ以上に楽曲、さらに言うと「音色」が印象的なゲームだった。
 作曲者は多和田吏。当時はジャレコ所属のサウンド開発者で、ファミコン用ソフト『ドルイド』『ラジカルボンバー地雷くん』、アーケード『キックオフ』『武田信玄』などを経て、前述の『プラスアルファ』が高い評価を受ける。とくにアーケード作品では、一貫して“音色”に強いこだわりが見られ、『キックオフ』のバックに流れる歓声、『プラスアルファ』のティンパニなどに強い印象を残した。他社はギターやベース、ドラムといったオーソドックスな楽器の再現に注力していたのに対し、ジャレコのこの選択は意外ともいえ、また個性とも言える。この『ロッドランド』においても、『プラスアルファ』の路線を受け継ぐかのような柔らかい音色が、ゲームの雰囲気によくマッチし、暖かな印象を残した。

 そして、それ以上にこの作品を印象深いものにしたのが、多和田自身によるアレンジ「交響詩『こどもの国』」。ゲームミュージックを組曲風に組み立て、なんと10分にも及ぶ大作アレンジに仕上げ、CDに収録した。もちろん、これ以前にも『ドラゴンクエスト』をはじめとして、組曲風のアレンジは多数存在する。しかし、作曲者自らが編曲を手がけ、打ち込んだ作品は珍しい。
 そして「こどもの国」というタイトルに込めたメッセージ。真正直な祈りは、今なら「青い」と鼻で笑われるかもしれないが、ストレートな想いはやはり心にストレートに響く。ゲームはお世辞にも大ヒットしたとは言えないので、このアレンジ曲を耳にした人もさほど多くないかもしれないが、それでもこの曲を聴いた人には、確実に惹かれるものがあったはずだ。

 多和田はこの後ジャレコから独立し、『ドラゴンクエスト』シリーズや『ポケットモンスター』シリーズの作曲・アレンジにも名を連ねることとなる。その片鱗は、すでにジャレコ在籍時からうかがえたと言ってもいいだろう。

【コナミ矩形波倶楽部】
 90年前半に『グラディウスIII/コナミ矩形波倶楽部』をリリースしたコナミ矩形波倶楽部。後半に入って『パロディウスだ!/コナミ矩形波倶楽部』『コナミ・ゲーム・ミュージック・コレクションVOL.2』を発売。『パロディウスだ!』はクラシックを大胆にアレンジし、ゲームミュージックに仕立てた珍しい作品で(クラシックのフレーズが使われたことは幾度もあるが、この時期の音源で曲としてきちんと形成されたアレンジは意外にもなかった)、ファンには高い評価を得た。
 また、この頃からコナミレーベルでは、注目タイトルは単体で、それほど注目されないタイトルは何作かをまとめて、それぞれアルバム化する方針を採るようになった。タイトル単体の場合だと、特に価格面でサイトロン1500シリーズやナムコ・ゲーム・ミュージック・エクスプレスシリーズと比較されてしまうが、フルアルバム価格(2,800円程度)にふさわしいタイトルと収録内容(ライナーも含めた)の充実ぶりから、一定の支持は得ていたようである。

 そして11月21日、ついにコナミ矩形波倶楽部は大きな行動を起こす。
 アルバム『矩形波倶楽部』のリリース。これはコナミ矩形波倶楽部のオリジナルアルバムなのだ。ゲームミュージック・バンドの両雄である、S.S.T.BANDもZUNTATAも、いわゆるオリジナルアルバムというものは作成してこなかった。あくまで既存のゲームミュージックのサウンドトラックに、アレンジバージョンを収録するという形式でしかない(S.S.T.BANDのみ、ベストアルバムという形でのリリースはあるが)。しかし、このアルバム『矩形波倶楽部』は、ゲームミュージックのサントラではない、純然たるバンド演奏で占められた作品なのだ。
 しかも、プロデューサーに迎えたのは、T-SQUAREの安藤まさひろ。当時、日本のフュージョンバンドとして人気・実力共に二分していたのが、安藤まさひろ率いるT-SQUAREと、野呂一生率いるCASIOPEA。野呂はすでにS.S.T.BAND楽曲の編曲を手がけており、つまりコナミ矩形波倶楽部はS.S.T.BANDに真っ向から挑戦状を叩きつけた格好となるのだ。
 とはいえ、このアルバム収録曲のうち、純然たるオリジナル曲は3曲。残り7曲は、既存のゲームミュージックのアレンジバージョンであった。つまり、コナミ矩形波倶楽部はこのアルバムでは「ゲームミュージック・バンド」の粋から爪先だけ出した格好でしかない。本当の意味でゲームミュージックという枠から飛び出すには、まだ届かない内容だったと言えよう。

 このように、1990年はS.S.T.BANDとZUNTATAによるライブが好評を受けた一方で、他メーカーも様々な形で独自のアレンジを模索していたのだ。
 今回挙げたように、90年に何らかの形を示したバンドやメーカーもあるが、この年に水面下で準備を進め、翌年からいよいよ形を見せ始めるプロジェクトも、いくつも存在する。
 翌91年より、いよいよゲームミュージックは大輪の花を咲かせることとなるのだ。

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【18】真夏の一夜の夢

 1990年8月25日。
 東京、日本青年館。

 GAME MUSIC FESTIVAL'90。
 ついに、この日がやってきた。

 S.S.TBANDひさびさの、そして新ベーシスト・TURBO君加入後初のライブ。
 ZUNTATA、記念すべき最初のライブ。
 バンドとして脂が乗りつつある時期のS.S.T.BANDと、全くの未知なるパフォーマー・ZUNTATA。その夢の競演が、いよいよ幕を開けるというのだ。
 開催日が夏休み期間中(実際には地方では夏休みが明けた地域もあるが)および土曜日ということもあり、最もコアなファン層である10代の学生にとっては、願ってもないチャンス。この時、自分は行けなかったのだが、恐らく関東近郊のみならず全国からゲームミュージック・ファンが集ったことだろう。

 日も暮れかけた頃、その幕は上がった。

【ZUNTATA Act】
 ライブが幕を開けたと同時に、重々しい男たちの声が朗々と響く。
 そして現れた少年の、一言。
  「ボクの名は、夢男!」
 なんと、出てきたのはZUNTATAではなかった。ステージは劇団(PPP'S WORKSHOP)による演劇からスタートする。その内容は、新たなる神となることを運命づけられた少年・夢男の物語。
 謎の男から手渡された“予言の書”。夢男がそれを開いてみても、何も書かれていない。しかし、耳を澄ませてみると、人々の声が聞こえるという――
 そこに流れ始めたのは、「A.D.1993」。『ニンジャウォーリアーズ』のデモで流れる曲が、重苦しく響く。
 そして満を持して、ZUNTATAが登場。聴き慣れた「OLGA BREEZE」の快活なメロディに、オーディエンスは一気にヒートアップした。
 バンドとしてのZUNTATAは、なんとホーンセクションまで入った13人編成。全員がおそろいの銀色のジャケットに身を包んでいる。
 もちろん、キーボードのOGR、ギターのMar.など、ZUNTATAを代表する作曲者達が目の前で楽器を弾いている。自らの手で、何度となく聴いたあの曲を演奏している。長い間待たされて、ついに実現した瞬間。まさに夢が現在進行形で叶っている至福の時間だ。

 ZUNTATAのステージは、劇団の演劇を合間に挟みつつ、代表曲を演奏するという形。
 しかし、単なるライブにとどまらない点として、それぞれの楽曲にテーマを持たせている点が挙げられる。“淘汰”の「Ja Fraw」、“平和”の「FREE THE LOVE」、“滅亡”の「CHAOS ~Main Theme~」など、ひとつの物語に沿って演劇と演奏が進んでいく。さらにはストーリーの展開のために、ゲームミュージックのアレンジではない「MECHANIQUE CIVILLISATION」という完全オリジナルの曲まで書き下ろしているのだ。
 代表曲を並べたライブのシーケンスとしても優れ、同時にひとつのストーリーを追った劇伴としても優れた構成は、ZUNTATAのコンセプチュアルな側面を存分に発揮した高い完成度を誇っていた。
 また「FREE THE LOVE」では、CDでもボーカルを務めたSUZANNE K.が実際にステージで歌い、「CHAOS~Main Theme~」では大本営発表のアナウンスを混ぜるという、まさにカオティックなアレンジを施す。
 最後はストーリーの結末として、神になるという運命に背を向けた夢男に“革命”というテーマを持たせ、さらに2年前のアルバムで“来たるべき未来”のライブに夢を託した楽曲としてファンには思い出深い、「DADDY MULK」を選ぶ。記念すべきファーストライブの締めくくりとして、また物語の結末として、これほど完璧な答えはないだろう。津軽三味線ソロには実際に三味線奏者がステージに登場、これもまた仮想ライブバージョンを再現したものだ。

 駆け抜けるように過ぎていった時間。
 「DADDY MULK」が終わったあと、2年前の仮想ライブと同じように場内を包み込んだ「ZUNTA」コールが、ファンのみならずZUNTATAにとっても夢心地に感じられたに違いない。
 1988年に思い描いていた夢が、今ここに叶ったのだ。

【S.S.T.BAND Act】
 高いコンセプト・ライブを見せつけたZUNTATAに対し、S.S.T.BANDが用意する答えはただひとつ。
 純粋に、バンドとしてクオリティの高いライブを行う。
 そして、それはファンもまた望んでいたことである。各種イベントでS.S.T.BANDがライブを行うたび、当時サイトロンにはライブアルバムの希望が寄せられていたとのこと。ファンが渇望していたS.S.T.BANDのライブが、ついに日本青年館という大会場で、多数のオーディエンスに向けて解放されるのだ。

 ミリタリー風の黒いコスチュームに身を包み、もはやお馴染みとなったサングラス姿でS.S.T.BANDは登場。ライブは「AFTER BURNER MEDLEY」で幕を開ける。
 事前に合宿までしたこともあり(その詳細はライブアルバムに詳しい)、さすがにそのステージングの完成度は高い。バンドとしての技術やまとまり、放射するエネルギーの熱では、ZUNTATAをも凌ぐものがある。
 前月に発売されたばかりの4thアルバム『HYPER DRIVE』より、「AIR BATTLE」や「新たなる旅へ」を演奏したかと思えば、バンド形式では初演奏の曲が並んだ「GALAXY FORCE MEDLEY」、さらにライブはおろかアレンジ自体が初となる「LAST WAVE」(『アウトラン』のネームエントリー曲)など、代表曲を惜しげもなく弾きまくる。まさにS.S.T.BANDとしての集大成と呼ぶべき、新旧取り混ぜたセットリストとなった。

 なかでも、注目すべきはそのフロントマン。
 ステージのど真ん中に立っていたのは、リーダーのMickeyでも、華のあるギタリスト・GALAXYでもない。新加入したベーシスト、TURBO君その人だった。1曲目からベースソロをかますなど、そのスラップベースで観客にビートを刻み込む。
 そして、あの有名なアジテーション。
  「ターボくんのベースをもっと聴きたいかぁー!!」
 ベースを手に、観客を煽る。これこそが、今回フロントマンとしてステージ中央に立つこととなった理由なのではないだろうか。
 前回(【17】GMF'90という名の“革命”前夜参照)書いたように、ゲームミュージックのファンにはゲームミュージック以外の音楽を聴いたこともなく、コンサートにも行ったこともないという人が多かった。それもあって、いわゆるライブでの立ち振る舞いに慣れていない者が多く、ともすれば“大人しい”“行儀のいい”観客でしかなくなってしまう。それを打ち破るかのようなTURBO君のアジテーションは、ある意味カルチャーショックであり、いわば“洗礼”であった。
 同時に、それはバンドにとっても新たなる刺激となったに違いない。ライブCD(後述)においても、ライナーノーツに「彼のプレイ、人間性が大きくバンドの活性化につながっていることは言うまでもない」とまで、他メンバー(恐らくMickey)に言わしめているほどである。邪推でしかないが、それまでゲームミュージックの作曲家とスタジオミュージシャンによるプロジェクトに過ぎなかったS.S.T.BANDが、彼の加入により本当の意味でバンドとして結束を固めたのかもしれない。

 最後は1曲目のメドレーには入っていなかった「AFTER BURNER」、そしてアンコールにて「POWER DRIFT MEDLEY」を演奏し、ライブは終了。ZUNTATAの時と同じく、「S.S.T.」コールが沸き上がり、場内を包み込む。
 真夏の一夜の夢は、一時も留まることのないまま、あっという間に過ぎ去っていった。
 跡に残るほのかな熱気と、強烈に刻み込まれた記憶だけが、その夢が本当だったことを物語る証だった。

【後日】
 その後のサイトロンの動きは素早かった。
 初のライブアルバムとなる『S.S.T.BAND LIVE -G.S.M.SEGA-/S.S.T.BAND』を10月21日に、『ZUNTATA LIVE -G.S.M.TAITO-/ZUNTATA』を11月21日に、それぞれ発売。さらに、ライブビデオ『GAME MUSIC FESTIVAL'90』『S.S.T.BAND LIVE』を11月21日に同時発売した。ビデオは前者がZUNTATAとS.S.T.BANDの両方の映像を収録、後者は文字通りS.S.T.BANDのステージのみで構成されている。
 地方在住などで行くことのできなかった多数のファンに、これらは大変な喜びを持って迎えられた。それがさらに深い渇望を呼び起こし、更なるライブ展開を望む声に繋がったことは、想像に難くない。また、「GAME MUSIC FESTIVAL'90」ということは「'91」もあるはずだ、という強い希望が、さらにゲームミュージック界の勢いを押し広げていくこととなる。

 1990年8月25日。
 その日は、ゲームミュージックにとって大きな里程標が打ち立てられた日である。

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【17】GMF'90という名の“革命”前夜

 1990年6月、大ニュースが飛び込んできた。
 8月25日、日本青年館にてS.S.T.BANDとZUNTATAがライブで競演する一大イベント「ゲームミュージックフェスティバル(GMF)'90」が開催されることとなったのだ。キャパシティ1,300人を数える名門的会場で、しかもS.S.T.BANDとZUNTATAの両方のライブが見られるという、まさしく“夢のイベント”と言うにふさわしい顔合わせに、ゲームミュージック・ファンは期待に胸を震わせた。

 ここで、この前後のS.S.T.BANDおよびZUNTATAの動きを追ってみる。

【S.S.T.BAND】
 S.S.T.BANDは前年12月に、初のベストアルバムとなる『MEGA SELECTION』をリリース。このアルバムのみの新曲として「OPA-OPA!」が収録されていたが、打ち込み中心の内容(1stアルバム『GALAXY FORCE』収録の「MAGICAL SOUND SHOWER」を思わせるアレンジ)ということもあり、この頃S.S.T.BANDが向いていた方向性とはあまり重なるものがなかった(そのアレンジから、あるいは1stアルバム収録予定ながらボツになった曲を入れたのかも知れない)。

 明けて90年6月、GMF'90の報せとほぼ同時期に、1500シリーズにて『AFTER BURNER/S.S.T.BAND』をリリースする。
 すでにGMOレーベル時代にリリース済みだった『アフターバーナー』の再リリース作品だが、GMOのものとは異なり実際にゲーム中に使用されている曲(メロディが省かれたバージョン)を収録。さらにS.E.集が入れられ、これで単体作品としてリリースする“表向きの”理由は揃った。
 だが、実際のところ大きなポイントとしては、アレンジバージョンでのS.S.T.BANDメンバー「TURBO君」のお披露目にあったと言える。
 前任のBURNERからベーシストを引き継いだTURBO君(この名もセガのゲーム『ターボアウトラン』に掛けたもの。ちなみに「君」までが名前)は、スラップベースの名手としてその個性を発揮。さらには、それ以上にその人柄がS.S.T.BANDにとっての起爆剤となるのだが、それはまた別の機会に述べたい。いずれにせよ、彼の加入でバンドとして大きくパワーアップしたことは、疑いようがない。このCDでも、「MAXIMUM POWER~RED OUT」のアレンジの他、新メンバーで録音し直した「AFTER BURNER(VERSION II)」が収録されている。
 さらにライブ直前となる7月21日には、4枚目のアルバム『HYPER DRIVE -G.S.M.SEGA 4-/S.S.T.BAND』をリリースする。前作に引き続き、アレンジャーにCASIOPEAの野呂一生を迎え、「AIR BATTLE」(G-LOC)、「WILDERNESS」(ゴールデンアックス)、「SPRINTER」(スーパーハングオン)など5曲をアレンジ。オリジナルも『G-LOC』ほか4タイトルが収録され、第3期S.S.T.BANDとしての充実ぶりを感じさせる内容となった。また、解説書でのMickeyのコメント「8/25日本青年館でまってるぜ!」は、まさに“動”のS.S.T.BANDの面目躍如と言えよう。

 初の大規模なライブということもあってか、この頃はインタビューなどでメディアへの露出も増加。ライブ直前には、伊豆高原大室山にて一週間の合宿も行うなど、ゲームミュージック・バンドの顔としての期待と責任が、彼らを着実に逞しく鍛えていったはずだ。
 来るべき祭に向けて、S.S.T.BANDはまさに準備万端であった。

【ZUNTATA】
 ZUNTATAは、前年11月21日にリリースした『DARIUS II -G.S.M.TAITO 4-/ZUNTATA』の余韻が、まだ色濃く残っていた。CDのリリースも、90年は4月21日に1500シリーズにて『S.C.I.』をリリースしたものの、アレンジの収録はナシ。
 そして本当の意味でライブ直前となった8月21日、5枚目のアルバム『TAITO DJ STATION -G.S.M.TAITO 5-』をリリースするも、こちらは2枚目のアルバム『究極タイガー』と同様にZUNTATAのクレジットはなく、アレンジも1曲たりとも収録されていない。その上、サイトロン提供のラジオ番組(【6】サイトロンレーベルの勃興とGMOレーベルの終焉参照)でDJを担当した、バッキー木場による曲紹介が挿入されるなど、今までの作品とは明らかにベクトルが異なっていた。
 そのうえ、初回版には8cmCDが同梱されており、そちらにはなんとZUNTATAメンバーによるコメディを収録。その内容も、「タイトーに電話を掛けてきた迷惑なファンの話」や「口で効果音を奏でる『サラリーマンコンポーザー講座』」など、とても素人とは思えない演技と脚本で、非常にクオリティの高いものだった。とはいえ、それまで音楽というフィールドで強烈な存在感を見せつけてきたZUNTATAにあって、この作品はファンの目には奇異に映ったことは間違いない。

 …このように、実際のところ音楽面では『DARIUS II』以降大きな動きはなく、ZUNTATAとしては沈黙を守り続けている状況だった。だが、これがかえってS.S.T.BANDと違い、「当日は何をしてくるのだろうか?」といった未知なる期待感を醸し出すこととなった。
 ライブ経験はないにしろ、積み重ねてきた楽曲のクオリティの高さは誰もが知るところ。それがライブという場を得て、どのように表現されるのか。ファンの興味は尽きることがなかった。

 ところで、当時S.S.T.BANDとZUNTATAのライブに多大なる期待が寄せられたのには、単なるファンとしての期待にとどまらない、隠れた理由がある。
 当時のゲームミュージックが、ひいては当時のゲーム界そのものが密かに隠し持っていたテーマが、「どれだけ世間一般にアピールできるか」であったからだ。

 それは元々がPSGやFM音源といった、生楽器にはほど遠い簡素な音源で鳴らされていたことへのコンプレックスなのかもしれない。今でこそチップチューンという言葉もできるぐらい、世間一般の認識も変わってきたが、当時あの音源で鳴らされた曲は「ピコピコ」の一言で片付けられていた。この言葉には、「所詮おもちゃ」といった蔑みの視線も、多分に含まれている。
 さらには、ゲームミュージックを聴く人間は、世間的に「オタク」の一言で片付けられてしまっていた(丁度「オタク」という言葉が広く認知されるようになったのが、前年の89年)。これはこれで、じつはゲームミュージックを聴く側にも問題がないとは言えず(意外に思われるかもしれないが、当時は「ゲームミュージックしか聴かない・聴いたことがない」という人がかなり多かった)、そうした部分で世間との隔たりは間違いなくあった。
 その後の音源の発達、アレンジというジャンルへの注力も、ゲームミュージックが“ゲームミュージック”という殻から脱却するためであったし、90年代に入ってそれがより世間一般へのアピールにベクトルが向いたのも、世間的なレッテルを剥がしたいというファンの「抵抗運動」がエネルギーに加わった事による部分が大きい。
 主なファン層は10代の学生だったこともあり、自らへのレッテルを自嘲したり笑い飛ばしたりするには、まだ若かった。その分、本当に真面目にゲームミュージックを愛していたし、ゲームミュージックというものに対する偏見を取り除こうと必死だった。それが、この当時の熱狂の正体である――と、片田舎でこの熱に当てられていた自分は考えている。

 満を持して行われる「ゲームミュージックフェスティバル'90」。
 それはまさに革命前夜のように、密やかな期待感がふつふつと沸騰寸前であった。

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【16】1990――新時代の種はすでに蒔かれていた

 1990年。90年代最初の年。
 そこには単に1989年から一年経過しただけにとどまらない、ある種の期待と不安が交錯していた。60年代、70年代、80年代と、各年代がそれぞれの特徴を持つ中、果たして来たるべき90年代はどういった時代になるのか…。
 それはゲームにおいても同じ事が言えた。1978年の『スペースインベーダー』で火が付いたテレビゲームは、紆余曲折を経て成長を遂げてきた。もちろん、ゲームミュージックもまた伴走するように成長し、さらにはバンドがゲームミュージックをライブ演奏する…という、それこそ10年前には全く想像すらできなかった時代が訪れたのである。

 しかし、ゲームミュージックのアルバムに限って言うと、90年代の始まりである1990年、その前半は意外なほど静かな滑り出しだった。
 話題作となると、2月に発売されたコナミの『グラディウスIII/コナミ矩形波倶楽部』ぐらいのもの。あとは正直なところ、小粒な作品ばかりと言ってもいい。ただ、この『グラディウスIII』はオリコンで初登場26位に食い込むという、ゲームミュージック界で初の偉業を成し遂げたアルバムであるとのこと。同年6月には、オーケストラアレンジを施した『交響詩グラディウスIII』もリリースされるなど、その楽曲は高く評価された。

 そんな中、じつは90年代にゲームミュージック界を席巻することとなる二つのものが、始まりの年であるこの1990年に生まれていたのだ。

 ひとつはSNKのニューハード、NEO・GEO(ネオジオ)
 6月21日に発売されたアルバム『NEO・GEO SOUND POWER -G.S.M.SNK 2-』は、NEO・GEO初期の5タイトル『NAM-1975』『ベースボールスターズ・プロフェッショナル』『トッププレイヤーズ・ゴルフ』『麻雀狂列伝(西日本編)』『マジシャンロード』を収録。それまでのSNK基板のサウンドとは一線を画する音色に、驚いた人も多いだろう。
 もともとNEO・GEOは、発売当初「凄いゲームを、連れて帰ろう。」というキャッチコピーの元、アーケードと全く同じゲームができるハードとして話題を呼んだ。とはいえ、初期のタイトルは非常に地味で、その優れた基板性能とは裏腹になかなかヒット作には恵まれなかった。
 しかし、この後も辛抱強く作品のリリースは続き(残念ながらこの時期の他作品はほとんどCD化されていないが)、翌91年には『ASOII』『2020スーパーベースボール』、そして『餓狼伝説』でゲーマーの注目を浴びる。そして1992年の『龍虎の拳』以降、対戦格闘ゲームの新たなる雄として一躍名を上げていくこととなり、あわせてそのサウンドも評価されていくこととなる。
 そうした来るべき時代の礎は、この1990年に築かれたものと言えよう。

 ちなみに、前述のアルバムにあわせて、非売品のカセットテープ『NEO・GEO SPECIAL ARRANGE VERSION』というものも作られた。こちらはA面に『ベースボールスターズ・プロフェッショナル』、B面に『NAM-1975』のアレンジバージョンを数曲ずつ収録。とくにA面は、作曲者の所有する高価なビンテージギターによる演奏が聴きどころだった。

 そしてもうひとつは、サイトロン1500シリーズより5月21日に発売された、データイーストのCD『空牙』
 データイーストの音楽は、これまで88年5月10日に『DATA EAST GAME MUSIC』(GMOレーベル)、同年9月25日に『デコ・ヒストリー DATA EAST GAME MUSIC SCENE ONE』(DATAMレーベル)と、アルバムを2枚リリースしてきたのみ。そして翌89年6月21日に、ようやくサイトロンより『GAME SOUND DECO -G.S.M.DATA EAST 1-』を発売。『スタジアムヒーロー』や『ファイティングファンタジー』『ロボコップ』などのほか、同社のピンボール作品『トルピード・アレイ』『タイムマシーン』も収録するなど、充実した内容で評価は高かった。
 しかし、その後CDのリリースは約一年間、ぱったりと途絶えてしまう。決してゲームが出ていないわけではないのだが、1500シリーズにもなかなかラインナップとして加えられなかった。ただ、89年にデータイーストは音源を向上させた新基板を採用し、とりわけその音源を活かした『空牙』の伸びやかなギターサウンドは、一部ファンに鮮烈な印象を残していた。
 そのサウンドが、ゲーム本体のリリースより大幅に遅れてこの年CD化されたのだが、ここに思いも寄らない猛毒が仕込まれていたのである。同社サウンドチーム所属の三人がギター・ベース・ドラムを担当した、アレンジバージョン「VAPOR TRAIL」だ。
 これまでのゲームミュージックのアレンジは、シーケンサーを使った打ち込み曲や、キーボードを前面に押し出したものがほとんどだった。もちろんそれも良いものなのだが、もっと激しい方向性がどこかで望まれていたのも確か。フュージョン調が多かった従来のゲームミュージックよりも、よりにハードに、より一般的なロックに近いサウンドを待ちわびる者も多かった。
 そこに来て、この「VAPOR TRAIL」では純粋にギター・ベース・ドラムのみで構成された、非常に骨太なサウンドが聴く者に衝撃を与えた。MARO(G)、アトミック花田(B)、ングジャ三浦(当時はオレガ三浦)(Dr)と、データイーストの社員たった三人で、皆が聴きたかったサウンドをズバリ叩きつけてきたのだ。S.S.T.BANDやZUNTATAなどが注目を浴びる中、誰もがまったくノーマークだったデータイーストからこのようなサウンドが生まれることを、当時誰が予想していただろうか? 毒薬を飲まされた人は、それを味わう直前まで、それが毒薬だとは知る由もなかったハズだ。
 もちろん、この作品を境にデータイーストのサウンドは大いに注目を浴び、バンド結成への気運が一気に高まることとなる。それは後に“GAMADELIC(ゲーマデリック)”というバンドで実現するのだが、それについてはまた後日書きたい。

 この二つのものを生み出したSNKとデータイーストは、80年代に栄華を誇ったナムコ・コナミ・セガ・タイトーの4大メーカー、さらに高い独創性で人気を勝ち取ったアイレムカプコンらと比べると、どうしても評価は一段落ちてしまう。いわゆる「佳作をいくつか作る中堅メーカー」という立ち位置だ。
 しかしサイトロンは、前身のGMO時代からそうしたメーカーの音楽作品も世に送り出してきた。鋭角的な音色で根強いファンを持つ日本物産、「通好み」の一語に尽きるジャレコUPLなど、サイトロン以外ならば見向きもしないようなメーカーのゲームミュージックを、CDとして形に遺し、世に伝えてきたのだ。
 それが時を経て、新たに育ったメーカーがこの1990年という年に、新時代の扉に手を掛けた。他のレーベルのように有名メーカーを根こそぎ囲い込むのではなく、ゲームミュージックの未来を見据えて地道に種を蒔き続けてきたサイトロンが勝ち得た、“実り”と言えるだろう。

 もっとも、この1990年に限れば、それ以上の衝撃がゲームミュージック界に待ち受けていたため、当時の印象は薄かったかもしれない。
 その衝撃的な報せは、6月に発表される。その内容とは――

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【15】80年代から90年代へ―― ZUNTATA・S.S.T.包囲網

 89年はS.S.T.BANDの有料ライブ実施などで、一気にライブという場での表現の気運が高まってきた年であった。
 もちろん、同じ表現者として、他のゲームメーカーのサウンドチームの中にも野心を抱いていた者は少なくない。それがアレンジなどで発露し、さらにはバンドの結成など、活発な動きに繋がっていく。
 90年代、ゲームミュージックが大きく飛翔する前夜。そこではすでに、胎動が始まっていたのだ。

【コナミ矩形波倶楽部】
 88年から徐々にキングレコードへの移行を始め、1989年5月21日発売のアルバム『サンダークロス』にて、ついにコナミレーベルを始動させたコナミ(【7】キングレコードの進出とコナミの選択参照)。その後、同年7月21日に『コナミ・ゲーム・ミュージック・コレクションVOL.0』をリリースしたものの、本格的な活動は翌年以降となる。
 しかし、同年10月、コナミ矩形波倶楽部は未来を見すえ、あるイベントを行った。
 それは「招待制スタジオライブ」である。88年のZUNTATAのライブ風アレンジや、89年のS.S.T.BANDの初ステージ(【12】両雄割拠――ZUNTATAとS.S.T.BAND参照)と、当時の主要メーカーのうち2社がライブというキーワードのもとに活動していた当時。主要メーカーの一翼を担うコナミとしても、黙ってはいられなかったのかもしれない。あくまでもクローズドな招待制、しかもキングレコードのスタジオを用いたスタジオライブという小規模なイベントであるが、事実上“オーディエンスの前でライブを行った、S.S.T.BANDに続く2組目のバンド”ということになる。

 もともとコナミ矩形波倶楽部の中心人物である古川もとあきは、アマチュア時代にバンド「VOYAGER」を率い、“コンテスト荒らし”と称されていたほどの凄腕のギタリスト。ゲームミュージックにおいても『グラディウスII』『A-JAX』を手がけ、ゲームミュージック・ファンからも多くの支持を集めていた。
 ZUNTATAやS.S.T.BANDが思い描いていたように、彼もまたライブという形での表現を夢見ていたことは、想像に難くない。このスタジオライブは約1時間、全7曲という控えめのボリュームであったが、次なるレベルへの第一歩となったことだろう(ちなみに、コナミ矩形波倶楽部もS.S.T.BANDと同じく全員がサングラスを掛け、全員が同じシャツを着用していた)。

【アルフ ライラ ワ ライラ】
 カプコンのサウンドチーム「アルフ ライラ ワ ライラ」は、GMOレーベル時代のアルバム『カプコン・ゲーム・ミュージックVOL.2』の頃からジャケットにロゴが描かれていた(その前の『カプコン・ゲーム・ミュージックVOL.1』より名前は出ていたと言われているが、自分の不勉強ゆえ詳細はわからず)。ちなみに『~VOL.2』は、コナミ矩形波倶楽部がその名前を出した『コナミック・ゲーム・フリークス』と同時発売であり、以前の記事(【11】1987年、萌芽。)でそれを「作曲者がアーティストとしての名前を表記した最初の作品」と書いてしまったが、その実カプコンも時を同じくして、名前を出していたことになる(さらに厳密に言えば、初期三部作でナムコも作曲者名を表記しているが、それはあえてここでは取り上げない)。
 その後、サイトロンに移籍して『大魔界村 -G.S.M.CAPCOM 2-/アルフ ライラ ワ ライラ』『ストライダー飛竜 -G.S.M.CAPCOM 2-/アルフ ライラ ワ ライラ』をリリース。アルフ ライラ ワ ライラによるアレンジは、いずれも高い評価を得ている。

 しかし、ゲームミュージックとしての評価は、セガやタイトーら主要4社の後塵を拝するにとどまっていた。ゲームそのものは、当時のシステム基板「CPシステム」の高性能のもと、大ヒットを連発していたが、音楽面ではいまひとつアピールに欠けていた点は否めないだろう(そもそもBGMに徹した曲が多かったことも、その一因ではある)。また、アルフ ライラ ワ ライラはあくまでもサウンドチームであり、他と違ってあまりライブという表現方法にベクトルが向いていなかったようにも思える(ちなみに“女性4人組”ということが同チームのウリであったが、彼女らがほとんど表に出てこないこともあり、それがセールスに繋がったかどうかには疑問が残る)。

 こうした状況は、結果的に90年代に入っても続くのだが、後にある作品の大ヒットにより、その状況も大きく変わることとなる。

【ガブリンサウンド】
 まさに「知る人ぞ知る」といったサウンドチーム。ポリスターのDATAMレーベル(【9】理想郷への脱出参照)よりリリースされた、セタのアルバム『ツインイーグル&スーパーリアル麻雀PIII SETA GAME MUSIC SCENE ONE』にて、初めてその名が表に出たと思われる。
 衝撃的だったのは、その1曲目である『ツインイーグル』のアレンジ「Early Warning(Can't sleep over 3 hours)」。伸びやかなボーカル、しかも日本語詞による歌は、フュージョン志向の強かった当時には珍しいロック調の曲だった。コンピュージックの『WEC LE MANS 24』や『ダブルドラゴン』のアルバムと並び、80年代の名ボーカルアレンジ曲と言えるだろう。
 しかし、当時のセタは『スーパーリアル麻雀』シリーズで高い技術力を誇示し、知名度もあったものの、いかんせんまだ脱衣麻雀ゲームにはアンダーグラウンドの香りが強く漂っていた時代。また、『ツインイーグル』など他のゲームはヒットには恵まれず、結果的に当時のメジャーなメーカーの陰に隠れる形となってしまった。

 ガブリンサウンド自身は、その後「Opus Corp.」に加入し、家庭用ゲーム機を中心に活躍。だが、ガブリンサウンドとして「Early Warning(Can't sleep over 3 hours)」で遺していった強い自己主張の種は、確かなDNAとなって、その後のゲームミュージック界に息づいていると言ってもいいだろう。

 こうしたゲームミュージックのアレンジ、および作曲者の表への露出は、もちろん作曲者たち自身の表現欲を満たすためのものではある。だが、同時にそれはゲームメーカーにとっても、格好の宣伝素材となっていた。
 それまでゲームの人気を決める要素は、「ゲームが面白いか否か」しかなかった。それが表現力の高まりに伴って、グラフィックの美しさ、操作の遊びやすさ、そしてゲームミュージックの善し悪しまでもが、ゲームの人気に影響を及ぼす時代になってきたのだ。
 さらに、作曲者名を明らかにすること(例え本名ではなくとも)により、その作曲者自身にファンが発生するといった効果も生まれた。中にはゲームそのものの面白さよりも、「○○さんが作曲したゲーム」として知名度を上げていったゲームも少なからず存在する。当時“音ゲー”“曲ゲー”なる言葉も生まれていたのだが、これは現在の「音楽を題材にしたゲーム」のことではなく、「音や曲はいいけど、肝心のゲームが面白くないゲーム」という意味。それくらい、当時のゲームにとってゲームミュージックの占める重要性は、大きくなっていたのだ。

 そして80年代に溜まりに溜まったエネルギーは、熱いマグマとなって、噴火の時を待っていた。
 1980年、初のゲームミュージックを奏でた『ラリーX』から10年。
 ゲームミュージックの誕生からアルバム化までを駆け抜けた80年代が終わり、時代はいよいよ“さらに上”を見すえる90年代へと突入していく。

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【14】日本ファルコムの閃光

 80年代後半、ゲームミュージックのリーダーと言えばセガやタイトーなど、アーケードの大手メーカーを指すことが多かった。実際、バンド活動まで行うなど、アーケード・ゲームミュージックは空前の盛り上がりを見せていた時期でもある。
 しかし、この時期アーケードゲームとは異なる舞台で、一人気を吐いていたメーカーがある。
 それが日本ファルコムだ。同社はパソコンゲームしかリリースしていないものの、『イース』『ソーサリアン』などゲームそのもののヒットに恵まれたうえ、珠玉と呼ぶにふさわしい楽曲群を抱えていた。アーケードゲームや、ファミコンなど家庭用ゲーム機と比べると実際のプレイヤーの数は格段に落ちるが、それでも熱狂的な支持を集めていたのが日本ファルコムなのだ。

 以前の記事(【7】キングレコードの進出とコナミの選択参照)にて、キングレコードのファルコムレーベルについて少しだけ触れたが、実際の80年代におけるリリースはどんなものであったのか、振り返ってみよう。

 ●ミュージック・フロム・イース (1987/11/5)
 ●ミュージック・フロム・ソーサリアン (1988/4/21)
 ●ソーサリアン スーパーアレンジバージョン (1988/4/21)
 ●ミュージック・フロム・イースII (1988/6/21)
 ●ソーサリアン スーパーアレンジバージョンII (1988/9/21)
 ●交響曲イース (1988/11/5)
 ●ファルコムスペシャルボックス'89 (1988/12/5)
 ●ソーサリアン スーパーアレンジバージョンIII (1989/3/21)
 ●ミュージック・フロム・スタートレーダー (1989/4/21)
 ●交響曲ソーサリアン (1989/7/5)
 ●プラスミックスバージョン・フロム・イース、イースII、ソーサリアン&スタートレーダー (1989/8/21)
 ●ミュージック・フロム・イースIII ワンダラーズフロムイース (1989/10/21)
 ●ワンダラーズフロムイース スーパーアレンジバージョン (1989/10/21)
 ●ファルコムスペシャルボックス'90 (1989/12/21)

 このラインナップを見て気づいた方も多いと思うが、ひとつの作品に対するアルバム数が非常に多いのが、ファルコムレーベルの特徴とも言える。
 基本的に、ゲームは『イース』シリーズ3作と『ソーサリアン』シリーズ、『スタートレーダー』しか題材になってない。にもかかわらず、手を変え品を変えて多数のアルバムをリリースしているのだ。

 特筆すべきは、参加したミュージシャンの豪華さ。初期のアルバムのアレンジや「スーパーアレンジバージョン」などでは、「金子マリ&バックスバニー」や「SENSE OF WONDER」の活動で知られるキーボーディスト・難波弘之をアレンジャーに起用。特に『ソーサリアン スーパーアレンジバージョン』では、鳴瀬喜博(B)、そうる透(Dr)、つのだ☆ひろ(Dr)、村上“ポンタ”秀一(Dr)、Char(G)、北島健二(G)、井上大輔(Sax)…という、すさまじく豪奢な布陣を敷いてきた。
 一方、交響曲シリーズでは編曲に羽田健太郎を迎え、さらに年末発売のボックスセット『ファルコムスペシャルボックス』では、毎年豪華なゲスト(森口博子、Anthemなど)を迎えて、贅沢なアレンジを収録している。

 しかし、このような豪勢な活動の陰で、『イース』『ソーサリアン』といった日本ファルコムの代表曲を作曲した古代祐三が、88年にフリーになってしまう。
 元々古代は、パソコン雑誌「マイコンBASICマガジン」の投稿プログラムで名をはせ、その後同誌で“YK-2”のペンネームでライターとして活動。同誌を離れた後、アルバイトで日本ファルコムのゲームミュージックを作曲していた。幼少の頃より音楽教育を受けていたこともあり、前述の作品においてもアーケードゲームに大きく劣る音源ながら、ポップで華やかな楽曲群は篤い支持を集めた。当時から高い人気を誇っていた古代と、『イース』『ソーサリアン』シリーズのヒットは、切っても切れない間柄であるとしても過言ではない。

 そのため、日本ファルコムは以後、二つの壁を乗り越えるという試練を強いられることになってしまう。古代の穴を埋めるほどの音楽と、『イース』『ソーサリアン』シリーズを超えるヒット作を――。
 それが達せられたかどうかは、軽々しく評価できない。しかし、時代の趨勢も相まって、古代サウンド及び『イース』『ソーサリアン』シリーズの時代…80年代後半が、日本ファルコムの黄金期という声はやはり根強い。

 古代は日本ファルコムから離れた後、『ザ・スキーム』などで他社のゲームミュージックを手がけ始めると、1990年には自身の会社・エインシャントを設立。その後、ゲームプロデュースを手がけるなどするも、作曲者・コンポーザーとしての活動は今もって続き、現在も多数のファンを擁している。
 そして、アーケードのゲームミュージック・シーンとは交わることがないと思われていた日本ファルコムだが、90年代に入り、思わぬ形でシンクロしていくこととなる。それはまた後日述べたい。

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【13】G.S.M.1500シリーズという「新兵器」

 サイトロンレーベルにおいては、ZUNTATAとS.S.T.BANDの活躍もあり、毎月発売するアルバムの材料には事欠かない状態が続いていた。
 …それどころか、この時期は基板性能の向上により日増しにゲームの規模が膨らみ続け、それに伴ってゲーム1作あたりの曲目もどんどん増加。それにより、次第にアルバムへの収録が追いつかない事態が起きていたのだ。
 具体的には、タイトーの場合『SYVALION -G.S.M.TAITO 3-/ZUNTATA』の収録タイトルは、わずかに2作品。『サイバリオン』と『チェイスH.Q.』だけで、CD1枚が埋まってしまったのだ。同じくセガの場合、『SUPER SONIC TEAM -G.S.M.SEGA 3-/S.S.T.BAND』においては、『ターボアウトラン』『ゴールデンアックス』を中心に何とか4タイトルを詰め込んだものの、収録時間は70分をオーバー。音楽CDの最大収録時間は約74分(当時)ということを考えると、まさに限界はすぐそこまで迫っていたのだ。

 その打開策としてふたつの方策が採られた。
 ひとつは、CD2枚組という手法。1枚にアレンジバージョン、もう1枚にオリジナルバージョンを集め、なんとか収録時間を増やすことに成功した。さらに、ケースの大きさを活かし解説書もやや厚めにすることで、アルバムとしての重みを増すことにも繋がったのだ。
 2枚組アルバムの最初の作品は、1989年11月21日発売のタイトー『DARIUS II -G.S.M.TAITO 4-/ZUNTATA』。後にセガ、カプコンも続いた。しかし、この作品ですら収録タイトルは『ダライアスII』と『ナイトストライカー』の2作品にとどまり、一方でアレンジのみを集めたディスクは収録時間が30分もなく、アンバランスさは否めなかった。ちなみに、アレンジのみを集めたディスクの記録面のうち、情報が記録されていない“余り”の部分に、ZUNTATAのロゴがプリントされている。

 そしてもうひとつの方策が、同年9月21日に発動されたサイトロンの新シリーズ、“G.S.M.1500シリーズ”。それまでGMOレーベル時代から受け継いできた「複数タイトルを1枚のアルバムに収録」する形ではなく、「単独タイトルを収録したCDを安価で発売」というパターンである。
 「単独タイトルを安価で」という方針は、かつてのアポロン音楽工業「コンピュージック」レーベルの手法を思い起こさせる。しかし、その時と異なる点は「12cmCDを使う」ということ。そのため、その気になればフルアルバム並みの長時間収録も可能で、なおかつ価格は1,500円という、まさに究極的サービスが実現したのだ。
 また、このシリーズには「アルバム単位では発売しにくいメーカーやゲームのサントラ化がしやすい」というメリットもある。これは1500シリーズ初期の発売タイトルを見れば、一目瞭然だろう。

【89年9月21日発売】
  『原始島』(SNK)、『天聖龍』(ジャレコ)、『ZERO WING』(東亜プラン)、
  『レジェンド・オブ・ヒーロー・トンマ』(アイレム)、『マルサの女』(カプコン)
【89年10月21日発売】
  『ドラゴンブリード』(アイレム)、『鮫!鮫!鮫!』(東亜プラン)、
  『ドンドコドン』(タイトー)
【89年11月21日発売】
  『テトリミックス』(セガ)、『クラックダウン・ゲイングランド』(セガ)、
  『ダートフォックス』(ナムコ)

 当時、中堅メーカーはリリースするゲームのタイトルの少なさ、また知名度の低さから、ある程度のタイトルが揃わないことにはアルバム化は困難な状況にあった。逆に、大手メーカーはリリースするゲームのタイトル数が多すぎて、アルバムに曲を収録しきれない作品が多数出てしまう。それが1500シリーズにより、中堅メーカーも大手メーカーも両方とも救われることとなる。
 また、『マルサの女』のように家庭用ゲーム機のサントラをリリースしたり(収録曲は全てアレンジされているが)、『クラックダウン・ゲイングランド』のように複数タイトルを1枚にまとめ、なおかつ1,500円で発売するといったようなケースもあった。ちなみに収録時間はそれぞれ20~30分程度で、2タイトルを網羅した『クラックダウン・ゲイングランド』でさえ、収録時間は33分に満たないのだ。
 数多くのメーカーを抱えるサイトロンによって、1500シリーズはまさに天啓であり新兵器。以降、このシリーズは小回りの良さを活かし、大いに活性化していくこととなる。

 ところが、じつはこれと全く同じ企画が、全く同じ日に、別のレコード会社にてスタートしていた。
 それはナムコ作品でお馴染みの、ビクター音楽産業(当時)。89年9月21日に、“ナムコ・ゲーム・サウンド・エキスプレス(以下NGSEに省略)シリーズとして、第1作目『ワルキューレの伝説』が発売されたのだ。
 このNGSEシリーズは、ゲーム1タイトルに絞り、12cmCDに収録、価格は1,500円…と、特徴は1500シリーズと寸分違わない。ただ、1500シリーズが毎月複数枚の作品をリリースしたのに対し、NGSEシリーズはリリース間隔が短くても3ヵ月に1枚、長いと半年以上経っても次のタイトルが発売されないこともあった。ビクターがゲームミュージックのサントラをナムコ一社のみに絞っていたことから、NGSEシリーズはアルバム『ビデオ・ゲーム・グラフィティ』シリーズの間を埋めるために生み出されたものと思われる。コンセプト上は、じつは1500シリーズとNGSEシリーズは正反対なのだ。

 いずれにせよ、この“価格破壊”とも言える両シリーズは、ゲームミュージック界を席巻することとなった。
 もともと、ゲーム単一タイトルでのアルバム制作というのは、珍しい話ではない。だが、それを当時のゲームミュージック界におけるメインストリームのサイトロンらが行い、かつ1,500円という低価格を打ち出したことが、まさしくエポックであった。
 この後、時代の潮流としては「アルバム1枚に複数ゲームの音楽を収録」というスタイルは廃れていき、CD1枚に単一タイトルのゲームミュージックという流れに傾いていくことになる。また、1500シリーズのおかげで晴れて表舞台に出られたメーカーもいくつか存在するが、それは別の機会に述べたい。

 なお、サイトロンとビクターの両陣営には、意外な部分で繋がりがある。
 そのひとつが、1990年3月21日にサイトロンから発売されたベストアルバム『GAME MUSIC BEST OF THE YEAR 1989』だ。
 この作品は、アーケードゲーム雑誌「ゲーメスト」で年に一度行われる「ゲーメスト大賞」、その1989年のVGM部門で上位に入賞した10タイトルの曲を、オムニバス形式で収録したアルバム。ここに、本来ならばビクターよりサントラが発売済みだったため収録が不可能と思われていた、ナムコの2作品『ワルキューレの伝説』『フェリオス』が収録されたのだ。同じく、キングレコードよりサントラが発売されていたコナミ作品が、結局収録されなかったことを考えると、このビクターの英断は賞賛に値する。
 一時期はナムコ作品を交互にリリースするなど(【8】三つ巴のナムコ争奪戦参照)、熾烈な争いを繰り広げてきた両陣営ではあるが、深い根底部分ではゲームミュージック界の発展のため、しっかりと手を取り合っていたのかもしれない。それを考えると、まったく同日に同じ企画(1500シリーズとNGSEシリーズ)がスタートするというのも、じつは示し合わせた結果だったのだろうか…興味は尽きない。

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【12】両雄割拠――ZUNTATAとS.S.T.BAND

 1988年6月21日、サイトロンレーベル第1弾作品として発売された『NINJA WARRIORS -G.S.M.TAITO 1-/ZUNTATA』。アーティスト名としてZUNTATAの名が記されているのは、GMOレーベル時代に続き2作目である。
 収録曲は、『ダライアス』に継ぐ3画面筐体ゲーム第2弾の『ニンジャウォーリアーズ』、凝った演出が話題となったガンシューティング『オペレーションウルフ』、体感レーシング『フルスロットル』、名作『バブルボブル』の続編『レインボーアイランド』…。
 『ダライアス』に続くOGRワールド全開の『ニンジャウォーリアーズ』、隠し面の曲まで収録された『レインボーアイランド』などが、このアルバムの表向きのセールスポイントである。

 しかし、このアルバムには密かに爆弾が仕掛けてあった。
 それはZUNTATAによる『ニンジャウォーリアーズ』のアレンジバージョン、「DADDY MULK」
 フェードインしてくるのは、コンサート会場さながらの大歓声。やがて手拍子と「ズンタ!ズンタ!」というコールに迎えられて、「DADDY MULK」の演奏が始まる。途中の津軽三味線ソロに本物の三味線奏者が彩りを添え、演奏が終わると鳴りやまぬ大歓声が…。そう、ZUNTATAはこの曲で“仮想ライブバージョン”というアレンジを打ち出してきたのである。
 さらにライナーノーツには、このような趣旨のコメントが書かれていた。「いつか『ズンタ・コール』に包まれて、本当にライブをやってみたい」と。
 このアルバムを聴いた誰しもが、心に爆弾を仕掛けられてしまった。
 「いつかライブのステージで、ZUNTATAを観てみたい」という夢を。
 恐らく、前年のセガ・サウンドチームによるイベントでのライブ演奏(【11】1987年、萌芽。参照)に、触発されるものがあったのだろう。仮想ライブバージョンという形で禁断の果実を口にしてしまった以上、ファンもZUNTATAもその夢を止めることはできない。それはまさに“禁断”のアレンジだった。

 遅れて翌月、サイトロンより『GALAXY FORCE -G.S.M.SEGA 1-/S.S.T.BAND』がリリースされる。
 こちらはセガのバンド・S.S.T.BANDのデビュー作として、大きく宣伝された。当時ゲームミュージックの四番打者的存在であったセガにも、ZUNTATAや矩形波倶楽部のように、ついにバンドが誕生。前年のライブ演奏とあわせ、満を持しての登場にいやがおうにも期待は高まった(ただし、この時点ではどちらもバンドとしての体裁は整っておらず、このアルバムでも大部分が打ち込みによるアレンジにとどまっている)。

 その後、タイトーは同年11月21日に『究極TIGER -G.S.M.TAITO 2-』を発表するものの、これは半分は東亜プランのアルバムと言っていい内容で、ZUNTATAのクレジットもなかった。だが、翌89年3月21日発表の『SYVALION -G.S.M.TAITO 3-/ZUNTATA』で確固たる方向性を打ち出し、11月21日発表の『DARIUS II -G.S.M.TAITO 4-/ZUNTATA』において不動の人気を獲得する。とりわけ後者は、OGRが聖書を読みながら作曲したと語る『ダライアスII』と、mar.が内に秘めた反逆衝動を“夜”というテーマを得て爆発させた『ナイトストライカー』、どちらも凄まじい完成度の高さを誇る楽曲群であった。
 一方のセガは、88年12月21日にアルバム『POWER DRIFT & MEGA DRIVE -G.S.M.SEGA 2-/S.S.T.BAND』を発表。体感ゲーム最新作も含むアレンジを4曲収録したこともさることながら、何よりS.S.T.BANDのロゴマークと、アーティスト写真(いわゆる“アー写”)が公表されたことにより、いよいよバンドとしてのパブリックイメージが形成された作品となった。

 S.S.T.BANDは翌89年2月、ドラムなどの加入により、ようやくバンドとしての体裁を整える。そして、あくまでイベントの一環ながら、ついにS.S.T.BANDとしてステージに立ち待望のライブ活動を開始させたのだ。メンバーはセガ・サウンドチームのスタッフと外部ミュージシャンによって構成され、セガからはHiro(Key)とMickey(G)、外部からはHARRIER(Key)、GALAXY(G)、BURNER(B)、THUNDER(Dr)という編成(ちなみに、HARRIERの正体は前述のアルバムのアレンジャーだった松前公高)。外部ミュージシャンは全員セガの体感ゲームのタイトルをもじった名前になっているのがポイントだ。
 ステージでは全員がサングラスを掛け、統一されたコスチュームで一種異様な雰囲気を醸し出していた。これは当時、セガは基本的にゲームの開発スタッフを表に出さず、インタビューなどに際しても顔を隠し偽名を名乗らせていたため(他社からの引き抜き防止が理由と言われている)、その制約を逆手に取ったアピール方法なのかもしれない。しかし、それがバンドにミステリアスな雰囲気を与え、衣装と相まって近未来的な存在感を醸し出していた。
 そうしたライブ活動を経て、同年10月21日には3rdアルバム『SUPER SONIC TEAM -G.S.M.SEGA 3-/S.S.T.BAND』を発表。アレンジャーにCASIOPEAの野呂一生を迎え、本当の意味でバンドとして作り上げた作品は高い評価を受けた。さらに11月には、MZA有明(当時存在したライブハウス・ディスコ。現在は格闘技専用ホール「ディファ有明」)にて初の有料ライブを開催。『ドラゴンクエスト』のオーケストラコンサートなどの前例があるにせよ、「ゲームミュージック・バンドが有料コンサートを開催した」ことは、当時大きな話題となった。

 ZUNTATAとS.S.T.BANDは、まるで競い合うかのように急速に成長を遂げ、ともにファンを増やしていった。まさにこの時代における、ゲームミュージックの“両雄”と言えよう。
 この両雄、その魅力はそれぞれベクトルが異なる点が興味深い。かたやバンドとしてのグルーヴとロックにこだわり、ライブステージに表現の場を求め、燦々と熱い魅力を放った“動”のS.S.T.BAND。かたや一音に至るまで緻密にこだわり、作品としてのトータルの完成度に表現者としての在り方を求め、「完璧」という不到の頂にあえて歩き続ける、求道者然とした“静”のZUNTATA。
 プロ野球でいう長嶋と王、プロレスでいう馬場と猪木、F-1でいうセナとプロスト――そういった相反する、しかしどちらも途方もなく高い魅力を放つライバル同士。そんな関係に近かったのが、ZUNTATAとS.S.T.BANDだったのかもしれない。

【追記】
 89年10月発売のS.S.T.BAND3rd.アルバム、および11月のMZA有明ライブにおいては、メンバーに「獣王」というキーボーディストが加わっていた。しかし、S.S.T.BANDに加入したのはこの時かぎりで、以後全く姿を現していない。また、S.S.T.BANDが7人編成だったのも、この時だけである。

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【11】1987年、萌芽。

 1987年3月25日、アルファレコードGMOレーベルより、アルバム『コナミック・ゲーム・フリークス(コナミ・ゲーム・ミュージックVOL.3)』『カプコン・ゲーム・ミュージックVOL.2』が発売される。
 このアルバムのジャケットには、それぞれ見慣れないロゴが描かれていた。

“矩形波倶楽部”
“アルフ ライラ ワ ライラ”

 これはゲームのロゴではない。各メーカーのサウンドチームのロゴだった。
 このアルバムでは、両メーカーのサウンド開発スタッフ、つまりは作曲者自身が「コナミ矩形波倶楽部」「アルフ ライラ ワ ライラ」を名乗り、アーティスト名としてアルバムに表記している。おそらくゲームミュージックのアルバムとしては、作曲者がアーティストとしての名前を表記した最初期の作品ではないだろうか(逆に、「作曲者がアレンジした」ことがひとつのトピックになる事実からも、当時のアレンジがいかに作曲者の関わっていないものだったのか…という想像も付く)。
 そして、この両チームを筆頭に、この年――1987年は、ゲームミュージックの作曲者がアーティストとしての自己主張を始めた年と言える。

 6月25日には、アルバム『タイトー・ゲーム・ミュージックVOL.2』が発売。そのオビには、“ダライアス/ズンタタ”と書かれていた。これがタイトーのサウンドチーム、“ZUNTATA”のデビュー作品となる。余談だが、管理人は最初この「ズンタタ」が、何を意味するのかがわからなかった。『ダライアス』はゲームの名前なので、ほかに『ズンタタ』というゲームの曲が入っているのか、と思ってしまった。
 このアルバムでは、ZUNTATAが3曲のアレンジバージョンを手がけている(ほかにコンスタンス・タワーズが2曲を担当)。だが、このアレンジそのものの評価は、当時は芳しくなかった。今までのアレンジバージョンとあまり変わり映えのしない、悪く言えば平凡な仕上がりで、とりたてて印象に残らないというのが正直なところだろう。また、コンスタンス・タワーズのアレンジが原形をほとんど留めていない強烈なものだったことで、相対的に印象が薄れてしまったとも言える。

 一方、コンピュージックの『オリジナル・サウンド・オブ・WEC LE MANS 24』(1987年8月21日発売)では、ゲームを開発したコアランド(現・バンプレスト)のサウンドチームが“DNA be Rock's”を名乗り、ボーカルを取り入れたギターサウンドをアレンジとして収録していた(余談だが“DNA be Rock's”とは、コアランドのバンド→コアバンド→COREBANDをひっくり返した表記が由来となっている)。
 当時のアレンジバージョンは、シンセサイザーで曲を打ち込み直したものがほとんどで、それもあってか「グレードアップバージョン」という呼称もあったほどだ。しかし、そうした流れとは一線を画する尖ったサウンドは、一部マニアの耳に鋭く突き刺さった。

 そして、忘れてはならないのがセガ。
 この年の12月、池袋のサンシャインシティ・噴水広場にて、「アフターバーナー・パニック!」というイベントが行われた。当時、最先端の技術と圧倒的な迫力・スピード感で、ゲーマーはもとより一般人にも絶大な人気を誇ったゲーム『アフターバーナー』。そのイベントにおいて、セガのサウンドチームによる『アフターバーナー』のゲームミュージックのライブ演奏が行われたのだ。
 編成はキーボード×2、ギター、ベース。キーボードは『アフターバーナー』の作曲者であり、『スペースハリアー』『ファンタジーゾーン』『アウトラン』などでその才能を開花させていた“Hiro”と、『カルテット』や『SDI』で独自のセンスを発揮し、当時のマニアにスラップベースの洗礼を施した“ファンキーK.H.”。ギターは当時まだ名前が知られる前の“Mickey”であった。
 ライブは当時のレポートによると、シーケンサーのトラブルで途中から音が出なくなってしまった模様。時節柄、クリスマスソングも披露するなど、あくまでイベントの出し物としての色が強かったようだった。だが、このライブがひとつの契機となり、翌年に繋がることとなる。

 そもそもサウンド開発スタッフは、元々何らかの形で音楽をやってきた人がほとんどである。
 ある者は音大を卒業し、ある者はバンドでのメジャーデビューを諦め、そして就職先としてゲームメーカーを選び、職業としてゲームミュージックを作曲する道を歩んだ。
 しかし、音源の発達による表現力の高まりが、そして確実に裾野を広げつつあるその市場が、彼らスタッフにアーティストとしての“自覚”を萌芽させ、“欲”を持たせる誘い水となったのは、疑いようがない。
 そして翌88年、サイトロンレーベルから二大アーティストが登場する。それは、90年代のゲームミュージック発展期へのプロローグとなる、歴史的な出来事なのだった。

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【訂正】
 上記中、『コナミック・ゲーム・フリークス』を「作曲者がアーティストとしての名前を表記した最初の作品」と書いていたが、正しくは『カプコン・ゲーム・ミュージック(第一作もしくはVOL.2)』にて、カプコンのサウンドチーム「アルフ ライラ ワ ライラ」の名前が先に出ていた(VOL.1は未確認だが、少なくとも『コナミック・ゲーム・フリークス』と同日発売の『カプコン・ゲーム・ミュージックVOL.2』には「アルフ ライラ ワ ライラ」の名前が出ていた)。お詫びして訂正する。

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